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神の摂理
北京の肥満児、10年間で5~7倍増
「30年後に米と匹敵」=児童の肥満率、10年間で2倍-中国
太っ腹な中国人、肥満児10年で倍増

↑第二次世界大戦後、先進国で政策的に人口調整を行ったのはドイツと日本ときいている。その結果、不自然な人口の山と谷(日本で言うところの団塊の世代、その子どもたちの団塊ジュニア)ができ、いろいろな問題を過剰に生み出しているのだとおもう。先進各国と違う扱い方をするニートもその1つだろうし、日本が経済的な先進国となったのも歪な人口構造によったのだろうし。

中国も一人っ子政策を行って、人口調整をやっているが、「肥満」と言う形で現れている。食べても食べても満たされない欲求過多の子どもたちが大人になって、ファッショの甲冑を身にまとうと思うとゾッとする。

神の摂理に手を出した結果、一部の人類は滑稽な結末を迎えているね。。
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by ssnostalgia | 2005-05-26 13:06
在宅ストレス症候群?
「在宅ストレス症候群」
↑そうかな~とおもった人がいたので。。。
ワタクシ、短期的繁忙期に入り、早朝?出社しているのですが、私より絶対に早く来ている同僚がいるのです。忙しいかどうかは知りませんが。
警備解除時刻はいつも寸分狂わず6時05分なのだ。笑
個人的な日課なのか?笑

本音を聞いてみようかしら、、、、と、思いました。
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by ssnostalgia | 2005-05-26 08:20 | TB
吉祥寺シアター /  麺屋武蔵虎洞
見下してるの、分かってるよ。

お怒り?のようなので、チョッとでも楽しんでもらおうとの思いから、お知らせ。。ニッコリ

今日ね、吉祥寺に行きました。野外ライブが最後だから約1年ぶりです。
で、なんでいったのかと言うと、仕事でお世話になった人のプロジェクト、つまりは吉祥寺シアターがオープンし、見学会があったのです。こざっぱりと使いやすそうな劇場でした。面白い出し物が続くんだってさ。。
お怒り気味のあなたもあなたもあなたもあなたも、是非どうぞ!
楽しい気分にたぶんなれるよ。笑

夕食は、吉祥寺生まれの同僚と麺屋武蔵 虎洞で。
新宿の本店よりは美味しい。脂っこいけど。。。

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by ssnostalgia | 2005-05-23 21:33 | Entertainment
「意味なく生きる美しさ」と「目的を持って生きる醜さ」
冷めたのか、安定したのか、燃料が切れたのか

楽しいと思われる記事を書くのは難しく、楽しいとかつまらないとかの声を感じるのはもっと難しいね。

外界からの刺激が必要なのが人間だから、刺激を感じなくなったら、ビジョンを持っていないと、外界と共に生きていけない。外界からの刺激を感じなくなったら生きる意味を失う。ブログの状況は現実で生きている人間の表れだから、ひょっとしなくてもNEETの説明にもなるのではないかな。

「意味なく生きる美しさ」と「目的を持って生きる醜さ」があったとすると、前者にこそ「楽しさ」があるのだろうな。NEETは後者の結果だったりして。
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by ssnostalgia | 2005-05-19 23:39
介護 保険 制度 老人 障害
土曜、日曜と介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)に見学。

介護保険制度の目的は、高齢化する社会の受け皿として、老人と障害者の垣根を取り払い、すべての高齢者を支援していく制度で、入所基準と補助制度は障害の程度等により異なるが、基準としてケア・要介助・介助要介護1~5と人間を分類する。分類によって経済補助(ケアの程度=人件費)の程度が異なり、ケアを受けることで、機能維持と健康増進を図っていく。

などなど制度に関してある程度の知識ではあるが、重度の障害を持った人にはその人に合ったケアをすることで基準とされる人間性を公平に獲得できるようにしようとしている。(年金と税金がなくなるこの先々、どこまでが国が面倒を見る範囲なのかが問題にされる。基準とされる「人間性」の線引きは(=「新予防給付」)法案審議を経て2006年に結論が出されるそうで。。)

見学で再認識したことは、誰でもが老化・障害とともに生きていると言うこと。高齢化に伴う身体機能の低下からこれまでできていたことができない身体的な変化は誰にでも訪れる。そういった機能低下を補助器具等で補い、健康な状態に近づくことをで健康なときと変わらない自分に近づくことを誰もが望む。たとえば視力が低下した場合は補助器具として眼鏡をかけて低下した視力を補い、足が動かなくなり移動が困難になった場合は、車椅子など移動できる器具により移動が可能となる。

身体的・物理的に完全に動けなくなっても情報技術の発達により、脳からの指令を何らかの方法で外界に伝えることができるようになった現代社会の技術は、人間を身体から解放したと心から感じる。本人の自覚を別にすれば、健常者も身体的障害者も補助器具を使うことで、実は変わりなく暮らしていける。

人間存在を脳に求める事実は上記の理由で語れる。脳で人間存在の線引きをすると、認知障害者は救いがたい。ずっと考えているが、これに対する私の答えはいつも同じになってしまう。見学に際して講演をしていただいた日本の保健福祉を引っ張っている著名な博士もやはり同じ答えでした。

物事を考えることは可能性を探ることと同じで希望に満ちているが、この問題に関しては私は結論を出して考えることを放棄してしまったのだと、悲しさをいつも感じてしまう。

追:近くにある老人ホームなどの施設を見学することをお勧めします。社会の縮図があるよ。
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by ssnostalgia | 2005-05-17 12:58
歌ま・く・ら
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小三治さんの人間描写が大好きで、どんな仕草にも言葉の端々にも、小三治さんが観察し想像してきた人間が表されている。ここまで表現できる人は生きている人にはいないと思う。

建築設計に例えるとね、設計者は図面を書くでしょ。そこでは現実に作られる建物を原寸のまま絶対に描けないから、さまざまな縮尺で作られる建物を表現するのです。たとえま、1/1000という都市的なスケールから、全体を把握できる1/500、それから1/200、詳細に入っていく1/50から部分詳細になる1/20、さらには1/5とどんどんリアリティを上げて物事をみつめていきます。どれが大切でどれが不要って事はないのですが、結論は作られるものを見つめています。

噺家は人間を語ろうとするからどんな仕草にも人間を感じさせなければダメだと思う。それが出きれば、どんな表現の中にも人間を描けるとも思う。小三治さんを通して発せられるものすべてに人間を感じます。

歌ったと言うことで、最近出した「歌ま・く・ら」買ってしまいました。歌もまくらもピアノも本当に良かったです。ほんとうに大好きだと大声を上げて言いたいし、生きている内に高座を聴くことをお勧めします。

・GWには寄席に行って、アルバムにサインを貰っちゃった。。。

・建築は、人間を内包する唯一の表現なので人間理解を必要とされと思っているし、そういった観点で噺家を見つめて落語を聴いています。

・ドラマ「タイガー&ドラゴン」が流行っているけど、何でだろう??
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by ssnostalgia | 2005-05-12 12:36 | Entertainment
「ウィスキー」
3人の老人が出てくる高齢者が織り成す恋愛ストーリー。人は誰かに愛されたいし、誰かに必要とされたい。これは年齢に左右されない普遍の概念なのだろう。高齢者は長寛な時間の中で生きている。そこでの恋愛は、要不要とは別次元で存在する必要不可欠のモノなのだろう。

映画「ウィスキー」は今年一番の映画だと思うが、あまりにも現実を現実として描く映画は、観る人にリアリティを感じさせないのだろう。ここには必ず訪れる社会が描写されている。

靴下工場で働く女性マルタとその工場の社長ハコボは高齢者である。与えられた日常を肯定し、日が昇ると訪れる毎日の生活を疑うことなく繰り返し生きている。彼らは社会的に雇用関係を結んでいるだけで、個人的な関係は何もない。しかし、海外で暮らすハコボの弟エルマンが兄ハコボの家に泊まりに来るというところから小さな変化がはじまる。

内気なハコボは、車椅子生活の母の介護で忙しいことも相まって、未婚であったが、母の死の後に、結婚して幸せな生活を送っていると見栄を張り弟に嘘を伝えてしまった。エルマンは母の介護から逃げていて、その謝罪の意味で兄に合いに来ると後でわかる。

ハコボはエルマンが泊まりに来る2~3日間は嘘を突き通すことを心に決め、妻の役をマルタにお願いする。口裏など合わせて、エルマンを迎え入れた短い生活が始まる。マルタはハコボに恋愛感情があるわけではなかったが、男女の関係を当然として意識する。いつもと変わらない個人的な日常と社会的な夫婦の関係を演じるなかで、他人に必要とされたい自分をお互いが意識し、擬似生活がすすむ。

兄夫婦であると知っていながら弟エルマンは、マルタへの自分の好意を伝えるような優しい接し方をする。マルタは必要とされる自分に戸惑いながらも嬉しく思いエルマンに少しずつ好意を抱いていく。マルタはハコボに恋愛感情を抱いていたし、ハコボもマルタに好意を持っていたが、止まってしまった時間のように二人はお互いの関係の変化を恐れていた。

優しくするエルマンの恋愛の手法に、マルタは口説き落とされてしまった。口説き落とした後のエルマンのマルタに対する態度は、飛行機がゆっくりと離陸する風景を背景にして、それまでの優しい接し方とは変わってしまった事を告げるが、マルタはそれを含めてエルマンを受け入れる。

エルマンの帰国後、ハコボとマルタはこれまでと変わらない生活を始めるはずだった。が、彼らのこれまでの関係は終わりを向かえ、映画はエンドロールを迎える。(おそらく、マルタはエルマンの後を追いかけて出国してしまったのだろう。)

高齢者の恋愛を素晴らしく上手く表現した映画である。ウルグアイの映画であったためか、ゆっくりとした時間の流れの描写が素晴らしい。

時間の流れは時代や場所によって異なるが、認識に大きく影響を受ける。人為に影響を受けない社会は確かに存在したし、そこでは人間の外部に主権があった。それは、人の意思を受け入れない不動の世界と言い換えられ、同じ状況を繰り返す社会だったと言える。普遍の時間を感じさせるほど、時間には意味がない社会であった。

そうでない社会(=今現在我々が生きる現代社会)は、それまでの時間の概念を変え、努力が結果として(インプットがアウトプットとして)、即座に反応として現れる社会だと言える。つまりは、人為が世界を変えられる社会を獲得した。主権は人間側にある。

主権が人間側にある社会は、望みが通じる社会と考えられ、変化が訪れる世界は、時間を生み出したと言い換えられる。「時間」と「変化」は同じことの言い換えなのだろう。「変化」が「時間」に意味を与え、「時間」が「変化」を計測する。人為が通じる社会変化を意識できる社会が時間を創造した。

映画で取り上げられていた変化から切り離され、変わらない時間を生きる高齢者を考えてみる。恐れずにいえば、高齢者は、社会的な時間とは無縁の世界に生きている人々と言える。高齢者は現代に生きていても時間や変化とは関係なく生きてしまっている。時間は誰にでも平等に流れているが、変化を感じ得ない人や変化を求めない人に時間は無意味である。

皆が獲得した1日が24時間で均等に計られるという尺度=時間は、今の世に何を意味するのかと考えてしまう。時間・変化から取り残された人が高齢者であったが、時間と無縁の社会に生きる人を「高齢者」という言葉が意味していた位置に定義しなおした方が良いのだろうし、その定義で言えば、その中には若者も簡単に含まれのだろう。

時間が意味をなくした社会とは、年齢に関係なく、変化と無関係に生きる人で埋め尽くされた社会なのだろうと私は肯定的に考える。そう考えると、皆が変化を獲得できる社会に意味が生まれ、年齢的に高齢化する社会を問題視しない状況を作り出すことができるのだろうと思う。

よい映画なので是非。ウルグアイの映画です。

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追記:映画の見方はいろいろあるもので、マルタは2人の男性にあきれ、お金を持って今までの生活を捨てて、都会へ逃げ出したという感想を聞きました。そういった見方をした男性もいますし女性もいます。それはそれで面白い話だと思いました。主体性のないマルタにそんな行動はできないと思う私はそう考えませんでしたが、人間を考えることは楽しい事だと心から思う。

追記0601:経験を積むという意味での加齢は、社会的に意味があって、時間を消費することと引き換えの経験を基盤に出来る点で魅力があった。しかし、加齢することは時代的に意味をなくす。

可能性を担保に生きているのが「若者」。可能性は時間の言い換えだから、可能性と経験を交換することで経験を積んだが、加齢が意味をなくした状況ではその交換を躊躇させる。

時間を通貨として成立っていた可能性と経験の交換が成立たない。その状況が変化と無関係に生きてしまう大人と、大人になることを敬遠する若者を作り出している。

時間と別次元に存在する可能性と経験の交換を作り出せれば、皆が変化を獲得できると感じる。
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by ssnostalgia | 2005-05-12 00:00 | movie
オナニー研究の第一人者
このインタビューも楽しく読ませてもらいました。
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by ssnostalgia | 2005-05-11 21:55 | book
「負けた」教の信者たち
斉藤環
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by ssnostalgia | 2005-05-11 21:52 | book
「ベルリン、僕らの革命」
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人質とされた大人(=貧富の差を正そうとする社会共産主義がまだ生きていた時代の若者)と3人の若者(=社会共産主義崩壊後の現代に生きる貧富の差を正そうとする若者)の生き方にスポットを当てる。そこでは、「外部に依存できた思想」と「内部にしか存在できない思想」との関係が描かれている。映画は「ベルリン、僕らの革命」

外部に自立した思想が存在する場合、それにすがれば良い。本心(=自身の考え)は必ずしも必要なく、表面的な挫折を経験した大人の思想変化を顧みる事で、現代の思想のあり方を見せる。外部に思想があった時代と内部にしか思想が存在きない現代の思想のあり方を照らし合わせることで、明確にされるのが若者たちの抱く内部にある思想(=本心)である。

外部にある思想は簡単に捨てられるが、外部に思想が存在しない場合、思想は内部に作らなければならない。内部にある思想は内部にあるがゆえに、その思想を捨てることは、生きる意味を捨てることだと映画終盤に述べられる。

価値観の多様化と言われる世界感がある。外部に自立した思想がなくなった世界では、仕方なく、若者は十人十色と言われる思想(=本心)を持って社会と関わりを持っていくことになる。映画では物を盗まない窃盗団(=エデュケーターズ)として意味不明な行動をする若者たちの存在を上手く表現していた。十人十色と言われる価値感の具体的表現は誰も理解できない。

若者の表現として富への攻撃が描かれ、大人の表現として資本の所有が語られる。資本主義に依存する富の隔たりを攻撃することは内部に宿る思想にはなりえないし、富を蓄積すること=所有と言う意味で生得的であるが、それも生きる意味にはならない。
生きる意味は、社会と関係を持つことで感じられるし、十人十色の価値観(=本心)をもつ個人が社会といかに関係を築くかが課題とされるのだろう。

蛇足として・・
正義感は不正に対して起こる人間的な行為で、不正を正そうとする意思が人間を行動に駆り立てるが、正義感には「経済」が働きかけられているのだろうかと、正義を考えることでいつも考えてしまう。

「経済」とは、例えば、正義の旗本に得る自身の存在理由であったり、現状を肯定できない故の社会への不満であったり、違う物差しで測られたい自身の優越感である。「経済」に働きかけられて、人間(=社会的には)は行動すると感じている。これは人間の一面の真理である。

同じように、人間は所有をしたい生き物でもある。所有を蓄積するための通貨が生まれ、結果として利潤を生む仕組みを作り出した。資本主義と言われているが、実は主義でもなんでもなく人間の営みの純粋な一面から生み出されたもので、行き着く先の結果であり、これも人間の一面の真理である。

富の差・貧困の差を生んだ資本主義という言葉が独り歩きして、それに対して資本主義の没落を唱えたマルクスの考えはイデオロギー(=主義)に持ち上げられ、資本主義の後に立ち上がるモノとして社会共産主義が立ち上がった。

結論としては、社会共産主義は東西冷戦の終結で嘘と分かったが、資本の隔たり・偏りを正すため多くの思想が語られた。それらが全て本心だったのかは、資本主義国家と社会共産主義国家の接点であったベルリンでは語る価値があるのだろう。日本でこれを語る価値が有るのか無いのか。
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by ssnostalgia | 2005-05-08 23:08 | movie



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