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自由学園 明日館
先週末、池袋の自由学園「明日館」に行ってきました。
寄席帰りで、桜の花見!と、思われると「爺(=ジジイ)」みたいですなー。
フラリと立ち寄りまして、和菓子コースの説明ツアーに参加しました。

説明ツアーで解ったこと。
1・自由学園の「自由」は女性の解放=「女学校」を母体として始まっていた。
 (前述は心からそう思うが、学校は職人を否定している組織だから、職業訓練「=職人社会」に意味を満たさない支配階級の社会意識が「学校」を作っている。だから、「学校」を母体として、女性の解放を願っていたのかは私には疑問に思う。後付の理由なのかな?)
2・入学したら強制的に自分が学ぶための椅子?を作らされる。(=らしい。同僚のハナシ)
3・「旧帝国ホテル」もそうだが、ドアの取っ手が高い位置についてあった。通常は90センチだが、120センチ?についている。この高さは「カッコイイ」!この気持ち、わかって欲しい。笑
4・ほとんどが結婚式に使われているため見学制限が多い「文化財」ですが、見学できてラッキーでした。(結婚は「文化財」が保障する「文化」です。。。)

追:↓の写真は当時学生さんが作った椅子とレプリカの椅子です。どっちがどっちだか目利きの皆さんにはお分かりになると思いますので、コメントは差し控えますが、資源の乏しかった当時は、大きな板(座面とか背板)を分割することで木材に対してのコストダウンを図った結果のデザインになっています。(大きなサイズの板を使うのと小さなサイズの板を組み合わせて使うのはコスト的に全然ちがうんだ。石とか木材とかとにかく大きなものはカッコいいですが高いですよ。。)
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by ssnostalgia | 2005-03-29 20:31
仕事の中の曖昧な不安(文庫)
出張帰り、新宿紀伊国屋に立ち寄りました。
本屋は楽しい。
本の内容を要約している本のタイトルがサラ~っと見渡せるから。
本を読まなくても、背表紙(=本のタイトル)は内容を読者に働きかける。
楽しいです。

たぶん、人の顔は本のタイトルに位置づけられる?の、だろうね。
人並みレベル?に届いていないと感じているワタクシの背表紙としての顔ですが、その顔は、次回をがんばろう!と、ただ、それだけです。

で、平積みの本の中に「仕事の中の曖昧な不安」(=NEETの著者)の文庫本を発見。早い!
2001年出版の本書ですが、文庫化に伴って、著者のコメントが秀逸でした。
秀逸です。
その内容は書きませんが「秀逸」と評したワタクシのコメントにそそられた方は是非、この文庫本を読んでみてくださいな。良いことは書いていないけど、悪いことに立ち向かう姿勢が書いてある。笑

ポケットサイズで600円より安かったです。商売っ気を出したか、出版社!?笑
著者のコメントは「希望格差社会」を良い意味で意識していましたよ。
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by ssnostalgia | 2005-03-29 20:00 | book
柳家権太楼 日曜朝のおさらい会
文七元結
青菜

まくらでの「正蔵」についてのコメントで私が感じて聞き取った内容です。

こぶ平(=正蔵)は落語に対しては、まじめだから、自分が足りない部分を良く知っている。広く世間に求められている林家の留名「正蔵」の地位が持っている名を汚さないために、おそらく襲名披露では、子別れや影清などのスジのある人情話を演目にしている。

噺家の中ではTVなどに出演していて、世間で広く知られた噺家で、広くメディアに出ていたため、持ちつもたれつという関係に近い。つまりは世間に求められている要求に応える必要を感じてしまう。正蔵に求められていているものは、例えば「こぶ平の人情話はいいよね!」と、口先三寸で成り立つ、世間の井戸端会議で成り立つ話の提供なのだろう。

正蔵は賢いから、そこを理解する。理解して演じてしまうから、悲しく、可哀想だ。

また、まじめに人情話を演じるのは実はセコで、ほんのりといい加減さを織り込まないと良い噺にはならない。正蔵はまじめにやりすぎている。逆に、スジのない噺や与太郎噺は、その場その場でのやり取りに演目が左右され噺家と客のイメージのコミュニケーションが求めらる。つまりは、落語の本質が問われる。スジのない話はだから難しく、磨かなければ上手くならない。

モノを見る目を持たない「世間」は、簡単に欺けて騙せるけど、このままそれに乗っかり続けていると、芸を磨けず、つまらない人間になってしまう。

「正蔵」を主語として、落語を舞台に書きましたが、一般論として考えれれる。落語に限らず、誰にでも当てはまる考え方だね。

1・権太楼の「文七元結」は凄く良かった!人情噺は好きじゃないけど、良いものはいいね。
2・泣きながら生まれてくるのが人間だから、泣くのはじつは簡単で、笑うことこそ知性が必要とされる。青菜を聞いたのは2度目ですがさすがはずさない。涙が出るほど笑いました。
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by ssnostalgia | 2005-03-28 13:09
3月に観た映画・ビデオ
0306 古今亭菊之丞の独演会
0310 中野講談研究会 講談「ガールズ・スタイル」
03   叶流日本舞踊
0314 ビヨンドtheシー
0318 ロング・エンゲージメント
0319 深夜寄席
0326 エターナル・サンシャイン
0327 柳家権太楼 日曜朝のおさらい会
0327 自由学園明日館 「桜」見学会
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by ssnostalgia | 2005-03-26 22:52
3月に読んだ本
01~04 希望格差社会
01~05 世間のウソ
05~10 リスク
10~14 人間臨終図鑑Ⅰ
10~19 教養としての<まんが・アニメ>
17~23 ニッポンの人材があぶない
17~25 手仕事の日本
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by ssnostalgia | 2005-03-26 22:39
ロング・エンゲージメント
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第一次世界大戦で引き裂かれた20歳前後の男女。戦死したと告げられる彼を求めて映画「アメリ」で主演した主人公が「アメリ」の役どころのままこの映画でも演じている。「直感を信じる。それは奇跡を信じること。」とキャッチコピーに書かれているが、主体の表現としてはその言葉にすべてが含まれるのだろう。あきらめないで信じることはとても大事なことだと思う。

直感を信じ続ける主体としての自己は、信じる対象となる自己の外部=客体側に何かを求める構造は存在しない。主体が信じれば世界は成立するのが「信じる」という仕組みである。客体に主体性は存在しえない。自己の外部が自身の「信じる」に影響を与えることはありえない。

主人公の女性は祈る。とにかく何かにつけ願をかけて、自分の直感を正当化しようとする。例えば、「これができたら、彼は生きている」の論法である。こういった感覚は誰もが持つ感覚なのだろう。私にも経験があるが、この願いが叶ったことはない。願うことで、信じている自分の正当化でしかない。

信じる主体としての自己は、この言葉の前後で述べられるのだろう。「主体」を取り囲む側に立ってみると、「信じる」意思を持つ主体を取り囲む客体としての人間は優しい。この映画での主題はここにあったと思う。これは私の場合にも当てはまるのかもしれないが、主観が強く「こうだ!」と思ったことをしつこいくらいに曲げない場合、周りはそれを実現しようとする。

主体の周りに存在する人間は「信じる」対象を守る。それが人間共通の感覚なのだと感じる。「信じる」姿勢は美しい。(「信じる」は物事を「崇め縋る」ではない。)

この映画で「信じる」姿勢を体現していたのは「若い」男女であった。大人だからこそ、若者が持つ「若さ」は振り返って共感でき、共通の認識があるから、「若く」てなおかつ「信じる」人の願い事は、実現したいと思うだろうし、見守りたいと思うだろう。

そうでなく、「信じる」姿勢を失っい立場によって自身の考えを変える可能性を食いつぶした「若くない」人の言葉は、誰も動かさない。これがすべて大人の姿勢とは言わないが、「信じる」ことに挫折を繰り返した大人には多いスタンスだと感じる。「若さ」を失った場合、純粋に「信じる」を美しく表現する「大人」が人を動かすのだろう。

ロング・エンゲージメントを観て感じた私の感想でした。
主演の男女の関係の雰囲気は幸の映画三昧での取り上げ方がどこよりもわかりやすいと思います。

1・映像表現にさまざまなリズム、単純に音であったり、人の習慣であったり、場面ごとに用いられる特徴であったり、そのような表現を巧みに取り込む監督の映画は、若者に優しい表現に満ちていた。

2・ジョディー・フォスターがちょい役で出ていたが、彼女が演じた「コンタクト」の主人公を思い出した。と、彼女は、私生活でも映画でも、女性を「女性」から解放する役どころなのだと、今回も感じた。

3・マネク役のギャスパー・ウリエルは序盤・中盤はパッとしなかったけど、ラストは驚愕の演技でした。驚いた。この男の子、売れるねー。周りが売り込もうとしているし。

4・「地獄への道は善意で敷き詰められている」は資本論に述べられるマルクスの言葉だが、ここで述べられる善意も、客体側へ立った個々人の傲慢、あるいは自己実現の投射なのだろうと感じた。「思い」をくじかれた場合に、味方だったものはすぐさま敵になり、地獄への道となるのだろう。

5・戦争表現が凄かった。
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by ssnostalgia | 2005-03-19 10:15 | movie
騎馬オペラ「ジンガロ」
↑評判いいですね。
仮設のケンチクのようですが、空間がとても良いと、見に行った人から聞きました。これは是非にと進められました。(ケンチク的にも勉強しろよ!っていみでしょうな。笑)演目は今までにないほど素晴らしいオペラのようです。
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by ssnostalgia | 2005-03-16 19:14
ビヨンドtheシー
ビヨンドtheシー

人には内面があって、その表れとして、コミュニケーションを誘発するメディアとしての外面(=そとづら)がある。いわゆる「顔」。内面が変わった場合には、外面を変えるべきなのだろうかと考えてみたが、変える必要はまったくない。他者に対する心(=内面)は、「偽れる」。これは事実である。(もちろん自分に対しての心は偽れない。)そうであるから、心が変わった場合に、他人に対する外面を変える必要はない。内面と切り離されて、外面は外面として自覚的に独立している。心が変わるたび外面を変えていた場合は、誰もが困惑するばかりで、心まで誰も見ようとはしない。外面は無意識の内に内面が形作る。

要点をかいつまんだ「ビヨンドtheシー」の感想でした。広くみられないと思うけど、地味な主題の良い映画でした。

1・映画「セブン」での殺人犯での演技から、ケビン・スペーシーには取り付かれています。「シンドラーのリスト」でのドイツ人将軍レイフ・ファインズも同じ格付けに私の中では存在します。悪党っぽいのが上手い人はいいね。

2・映画「シカゴ」に迫るダンスシーンだったと思う。彼は、やりすぎの感はありますが、好きです。笑

3・監督兼主役のケビンは、ネット社会を意識しているのだろう。発信者とその表現の関係を考えてしまう。発言者と文字の乖離は、文面上、明らかなウソや虚飾は相手にしたくないが、人の迷いは、潔さと私は解釈しますし、されたい。笑
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by ssnostalgia | 2005-03-14 20:45 | movie
希望格差社会
希望格差社会

線形の時代から非線形の時代への移行はずいぶん前から語られてきた。線形の時代とは前近代・近代を指し、予測可能で予定調和を含意した安定した社会を基盤に、身分や肩書きなどの属性が支配する社会であった。人間と扱われたのは、前近代社会では支配者としての王侯貴族だけであったり、近代社会では革命を勝ち取った「男性」だけであった。身分や肩書きをなどの属性が作る社会は、悪い部分ばかりではなく良い部分も含んでいたが、時代の流れは、それを認めず、市民革命を象徴とし、絶対を否定する、誰にも命令されない社会、誰にも縛られない社会、誰にも抑制されない社会などを含む自己決定権を持つ社会を目指し、事実、その結果が現代なのであろう。非線形の社会とは、属性(性別や家柄)に縛られない平等な社会と言い換えられるのかもしれない。

非線形社会のメリットを一言で言えば「自由」なのだろうが、メリットに隠された部分を直視しないで表面的メリットだけを追ってきた事実は確かに存在する。現代の日本の状況を述べる本書は「希望格差社会」と現代を一言で表している。「自由」を追い求めた結果、実現されるはずの現実は、線形の社会では獲得された感覚(あくまでも感覚)を得ることはできたかもしれないが、非線形の社会は、右肩上がりを否定した社会だからこそ、人々の予測をことごとく裏切り、結果を手に入ることは極めて少なく、「挫折感」だけが漂う。それは大衆としての個人の「希望」をなくした社会状況をよく示しているのだろう。我々は「自由」を獲得したと同時に「挫折感」を引き受けたのである。

前近代は、危険の領域が明確化され、タブーを犯さない限り社会的な安全を永遠に獲得できた。武士は武士であり続けたし、結婚が男女間を支えた。近代は前近代の変形で、危険領域を制御し安全領域が拡張されたと考えられ、前近代と比べるとより理性を求める社会として考えることができる。この二つは位相としては同じと考えても良い。近代以降は「自由」という名の下に前近代・近代に存在した位相を取り外した。すべての領域での危険と安全が同居する不安定な社会であり、我々人類が求めた結果は、事実、機会の平等であった。予測不可能な社会では、平等にチャンスもあれば同時に危険もある。

俗に言われるパイプラインシステムが機能せず、尚且つ途中での脱落「漏れ」を含んでいる中、出発点のポテンシャル(=学歴の有無など)は実は意味をなさない。二極化されていく社会と言われるが、二極化される社会のどちらに属するかも事実、問題ではないと感じる。ただ、アウトソース化され、消費され、浪費されていく労働力が万人の希望を削いでいく状況には、寂しさを感じる。「人を育てる」と言う職人的な資質を含む、内省化社会、非消費社会、非浪費社会、が個人の資質では守れない部分であるとすると、社会なり国家が補償するものなのだろうと感じ、この部分には、二極化される社会に対する個人では解決できない部分だと感じる。

・・「負け組」の絶望感が日本を引き裂く・・サブタイトルに書かれた言葉が左記であるが、絶望感は「負け組」にあるのではなくて絶望感を抱いたものが「負け組」なのだろう。本書で山田昌広さんは触れていないが、絶望感を抱かないで自己を駆動するトポスを内面に抱え、それを希望と読み替えていくには、人それぞれに知性が必要され、また、愛情も必要とされるのだろうと私は感じる。後者(=愛情)は生存を肯定された感情であり、何者にも変えがたいと考えられないだろうか。

1・個人化する社会では、利害が一致しないので寂しいかな団結は生まれない。「労働組合」と「経営者」といった相反する利害関係のうち「労働組合」がなくなる状況は事実だろう。何が「経営者」と戦うのか。非線形の社会では計画経済=社会主義の存在自体が成立たないから、「労働組合」的な概念自体がありえないのだろう。

2・非線形の社会であるが、人々が、線形を求める気持ちはよくわかる。始点があって終点がある状況は、携帯電話やTVゲームなどのポケット・ゲームに受け継がれているという指摘が本書にあった。まったくそのとおりで、成長していくキャラクターにプレーヤーは何かを望んでいるのだろうと、ケータイゲームなどで時間を浪費?することの虚しさを実感して欲しい。非線形の現実は現実として存在する。

3・人に厳しくドライな本であった。が、すべては、人を憂うための事実であり、内容として時代を捉えている。5年後に、この本に書かれた状況がどのように判断されるのだろうか。

4・「パラサイト・シングル」を生み出した著者は、時代の先を捉えているのだろう。先を見る目は人の資質によるのか。

5・「希望格差社会」という言葉に「ニート」ほどのキャッチーがないから、だれも話題にしないのだろうと感じた。

6・本書のキーワードに「リスク」という言葉が出てくるが、これこそが人間存在の現れ=挑戦の表れなのだろう。「AGAINST THE GODS」を「リスク」と訳した本が本書の中で取り上げられるが「自由」が獲得したものは、この意味なのだろう。

7・「自由」を望まない人(=前近代的な社会を望む人)は文字を捨てるべきだが、悩むこと自体が前近代を否定している。
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by ssnostalgia | 2005-03-13 23:52 | book
雑記
アート作家さんたちと打ち合わせ後、お食事をご馳走になる。柔らかな雰囲気をもったやさしそうな人で、彼から、ロマンポルノの鈴木清順監督の映画「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」を進められる。はずしの美学に漂う居心地の悪い雰囲気が近代でなくて良い、が本心で、彼の心に横たわる作家としての本能なのだろう。良い顔をしていた。

彼は精神病院のためのアートを作った経験があり、そのコンセプトもはずしの美学で表現され得る。近い将来仕事をご一緒すると実感。

渋谷・新宿・青山と打ち合わせなどで外にいましたが、通りを歩く際は人の顔を見ながら歩くようにしている。顔にはいろんなものが表れる。モノを考えている人の顔は、考えている人の顔をして存在していると思う。それを良い顔とした場合、1000人中1人いるかいないかぐらいだったかな、、

良い顔と判断している根拠が曖昧ですが。笑
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by ssnostalgia | 2005-03-12 07:42



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