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fine winter day - Ritchie Blackmore
楽しく?仕事しています、休日でして。。
今日は大好きなリッチーブラックモアの後期の系譜を負っています。ノスタルジックですがカッコイイです。聴いたこと無い人が多いと思いますが、様式美ってロックにはあってさ、それの最高峰だと思っています。(クラシック音楽を除いてです。)様式が崩れた今はダサくて受け入れられにくいでしょうね。でもね、「Rock and Roll 」って言葉は何かが生まれそうで大好きです。
肩に手をかけられてロックされて揺さぶられるんだモノね。「目を覚ませって!」笑。で、「rap」(=ヒザをさして屈伸するサマ)はもっと内面的で自発的なものを誘発するんだろうね。メロディーではなく詩。アジッテルシ、、


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Rainbow
Bent Out Of Shape
Live in Germany
Finyl Vinyl
Stranger In Us All

Whitesnake
Whitesnake

JOHN SYKES
JOHN SYKES

Underworld
Everything, Everything

cf fine autumun day

写真はリッチーです。ズラです。笑
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by ssnostalgia | 2005-02-27 12:20 | Entertainment
ちゃんと話すための敬語の本
ちゃんと話すための敬語の本

統治するための仕組みとして冠位十二階が作られた。社会を治めるための身分制度である。絶対的な力は必要とされ、また演じられ続けてきた。そういった時代に作られた日本独自の言葉である敬語。敬語は社会の仕組みとあいまって尊敬・謙譲・丁寧と社会的な自分の立場に適応した使い方使われ方があった。

身分制度がなくなってしまった現代社会での敬語の存在自体が矛盾である。人を呼ぶ時に「おまえ」「きみ」「あなた」と使う。その意味する距離感が身分制度があった社会と現代社会では優劣がまったく違う。身分制度のある社会では「おまえ」が最上の意をもっていたが、現代では人に対して「おまえ」は失礼なのである。(親しい間柄は別)その他、敬語に関する楽しい矛盾がいくつも分かりやすく書いてある。

言葉を作り出した社会が無くなり、言葉だけが残って、現代を拘束する。拘束された現代は、言葉から逃れられるのか?それを疑問に思う天才橋本治は、十代向けの本書で、若者に新しい価値観の想像を問いかける。言葉をうまく使えない若者こそ可能性があるのだろうか?大人の価値観は崩せないのだろうか?観念と現実の倒置をさらりと扱ったシンプルで素晴らしい本である。

追、冠位十二階の最下位が頭の良さを指す「知」です。知識は道具で、だから最下位です。
最上位は人を動かす「徳」。人を動かすのは徳しかないね。これも納得。
2時間もあれば読める本です。オススメです。
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by ssnostalgia | 2005-02-26 08:25 | book
『下山事件(シモヤマ・ケース)』

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『下山事件(シモヤマ・ケース)』

敗戦国日本は戦後GHQ支配下にあった。日本人の価値観が反転する世界が訪れ、日本は完全に敵軍の支配化に置かれた。法人(自然人以外で、法律上の権利義務の主体となることができるもの)として国が存在を認められたら国として歩き出す。国が人としての人格を持つとすると、その人格が歩き出すことになるが、この国の人格はなんなのかといまさらながらに考えさせられてしまう。

日本が戦後国として歩き出した背景には、ソ連・中国を意識した欧米各国の赤化を恐れる状況があり、日本の目先には朝鮮半島が横たわっていた。恐れたのは外部の「赤」だけではない。「赤」は外部だけに存在したのではなく、ニューディーラー(左翼のリベラリスト)としてGHQないの派閥争いを行っていた。結論から言うと、内部の権力争い・勢力争いが、一国の人格になり進むべき方向性(=下山事件からの、、)を決めたのだと、本書は述べている。

下山事件。この1つの事件を境に、日本が朝鮮特需の恩恵を受けて経済大国なっていくと本書は述べる。当時の日本は善も悪も政財界も闇社会も同じ穴に棲む状況を良く捉えている。一読の価値はある。今から50年前の事実を問い詰められた事件関係者の弟が述べる言葉を引用する。

「確かにあの時代はいろんなことがあった。誰もが生き抜くことに必死だった。兄貴だって胸を張っていえないようなことをしたことはあるかもしれない。だけど人を殺めるようなことはしていないと俺は信じている。・・・仮にもし、仮にだけど下山事件がなかったら、今の日本はどうなっていたと思う?もしかしたらドイツや朝鮮半島のように南北に分断されていたかもしれない。少なくとも今の日本は大きく形を変えているはずだ。結果としてそれが良かったのかどうかは、俺には分からない。でも少なくとも、今この豊かさは望めなかっただろう。」

この台詞を引き出した作者と関係者の弟は、作者が関係者の弟の信頼を裏切る形で引き出せたものであるが、簡単に拒絶することなくまたされることのない強く柔らかな人間関係と人間性を描いていた。

1・「下山事件」の取材から別な形でパクリ本が出版されたようだが、それを許容する森さんのスタンスは肯定できた。「世界はもっと豊だし、人はもっと優しい」は彼の生き方なのだと思う。

2・映画でしか知らなかったし、若いと思っていたが1956年生まれでまもなく50歳。この年代が人間としての熟成しきったところなのだろう。他の本ももっと読んでみようと思う。

3・映像を通しての物事の切り口の土台に、彼の文章があるのだと本書で感じた。
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by ssnostalgia | 2005-02-24 12:29 | book
デートコース?
タイヘン面白いブログを展開している人を発見しました。カレシです。
私のところでお付き合いなさってくださっているdekikaketa姉さんと同じベクトルかな、、、良いセンスしていて楽しませてもらいました。

男性(=おそらく)の彼が楽しいデートコースの紹介を私にお願いしてきました。ひょっとして、こいつは○○○○○などと思いつつも、イカシタ楽しいセンスのブログを展開しているので、何かできるのかな~思って、女性(もちろん男性でもいいです)のブロガーの方に「こういったデートがワタクシの理想」とのたまってもらいたくおもいました。これを読んだ女性の方はコメント&TBしてくださると嬉しい。匿名でも構いません(匿名の方が面白いことがかける?)ので夢見る男性?にブレーンバスター(=頭割り)をかましてください。

私の場合。。。
デートコースとは限定されませんが、私は日常ではないものを求めますね。比喩として生業の建築で話を進めますが、余分なのもがない=本当に必要なものを感じることがプライベートでは大切なことだと思っています。モノには存在理由があって、存在するためには不必要なものがベタベタと貼り付けられてしまう。そういったものがないプリミティブなものが感じられる場所が好きです。

例えばね、上野にある法隆寺宝物館が洗練されたデザインの終点と感じています。余分なものがない本当に綺麗な建築です。すべてを完璧にコントロールして、余分なものを消している。浮浪者のたくさん住む上野の森を抜けたところにひっそりと立っています。これを先端とすると、それを遡ることに意味があって、それは巨匠フランク・ロイド・ライトの自由学園明日館です。こっちは必要なものだけで作られています。(意図的にデザインされていますが。)小さく感じるかもしれませんが人間のスケール感はこの前後なのだとおもう。誇張なく自然なあり方を感じられます。

近代以降、建築は過度の要求(経済性・生産性・耐久性・法的云々)でブヨブヨに膨れて大きくだらしがないモノになっているなか、この二つの建築のあり方を意識することが大切なのだろうなと感じています。比喩として取り上げたこの二つの建築のあり方にすべての現実は挟まれています。

比喩として建築を語りましたが、この二つは是非、行って感じてくださいね。
法隆寺館にはホテルオークラのレストランが入っていますし、自由学園明日館は近くで美味しいラーメンが食べられますよ。

プロフィールに書いている場所も、もちろんオススメです。
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↑この写真はインレー湖。本当に必要なことだけでできている社会です。が、すべてが良いことだけではないです。笑
湖のそこから藻を取ってそれで浮き島を作って彼らは生活しているのです。藻を積みすぎて沈みいく船の水をかき出しています。うーん、あまりにも人間的だよね。。。

追:「インレー湖」の対極は「ディズニーランド」ですかね。くさいものには蓋をするみたいな。。
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by ssnostalgia | 2005-02-18 23:45
『女』
『男』

シットリとした今日の雨はいいです。
『男』を謳った↑の詩もいいです。
『女』って詩は無いのかな?と、さびしい生きものの私はぼんやりと思った。。笑

で、あまり関係ないけど、双調平家物語2。大化の改新で暗殺される息子を持つ蘇我蝦夷の巻です。
蘇我馬子が嫡男の蝦夷に語る「男と女」の関係は、そのまま帝(=女)のあり方を浮き彫りにしていると感じたので。。

以下抜粋、、

「帝というものは、それを戴く人のためにある。帝が、己を欲しいままにして我欲をつのらせたなら、国は乱れる。帝に必要なものは、己を空しくすることができるかどうかだ。いかなれば、己を空しくすることができるか。男というものは、どうやらこれがなかなか出来ん。なにしろ、男には、股座にとんでもないものがあるからな。」

中略

「男というものは困ったものだが、女というものは、どうも違ったものらしい。男を得ることによって、女であることを全うした女は、どうも己を空しくすることが出来るらしい。・・奢らず、気立てよく人に尽くす。帝というものはそのようなものでなければならん。・・女であることを真っ当出来た物は、それ以上のものは望まん。」

以上

「男」が胡坐に持つとんでもないものとは欲望の比喩である。「男」以外は欲望を持たないのではなくて、欲望を持つものが「男」なのである。あるべき帝のあり方は、欲望を捨てた象徴であり、そのままあるべき女のあり方という。

女を全うしたい欲望をもった女はなんと形容したらよいのだろうか。
女を全うしたいが女をまっとうできない女はなんと形容したらよいのだろうか。
女(=帝)が欲望を持ったら女を廃して男にならざるを得ないのか。
女がすべて男になったら男はどこへいくのか。

追:むずかしいな。。
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by ssnostalgia | 2005-02-16 09:11
しゃべれども しゃべれども
楽しい落語の小説を読みました。

しゃべれども しゃべれども

LoveBooksさんの激しくオススメしますで見つけました。数年前に読者投票でナンバーワンになった小説の文庫版です。会話のにがてな対人恐怖症の優しい登場人物たちが古典芸能の落語を通して関係を持っていくストーリです。

小説の中で「落語」と「茶の湯」が同じ意味で取り上げられている。それは、私が日ごろ感じることと同じ内容でした。本書では人との関係に持つ気持ち(=一期一会)に、古典芸能がもつ意味を込めている。

何度となく会う人とも、その日その瞬間は本当に一度きりで、同じ条件は一度も無い。すべての機会はただ一度きり。だからこそ、共通して認識できる様式に人はよりどころを見つけ、見ず知らずの人とも様式を通すことで理解を深める。ここで言う様式は、落語や茶の湯には限らない。

各個人に共通した様式が獲得される、もしくは、共通した様式が獲得されないまでも様式の存在を認める感覚が獲得されると良いのになと、「古典」の意味をそこに求める。
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by ssnostalgia | 2005-02-13 23:58 | book
私が読む物語
帰りがけTUTAYAに立ち寄ったら「パッション」が置いてありました。
はやい、、

パッション」や「イース・トウエスト」が述べることと「君に読む物語」の主題は同じだと思う。表層は違うけどね。
私が読み取る物語は同じだ。
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by ssnostalgia | 2005-02-08 23:21
The Notebook / 君に読む物語
君に読む物語

人生の終盤で人は恐らく人生を振り返る。終盤でなくとも振り返るのだろう。そのとき振り返る人生は何度となく要求され選択を迫られた道の上に成立っている。そこに積み上げられた事実は誰もが否定することはできない。どんな人生(女も男も金持ちも貧乏も何もかも)も自己決定の上に成立っている。そしてその人生を肯定すべきモノとする大きな因子としての愛をこの映画は語る。

痴呆症老女(アリー:ジーナ・ローランズ)を見舞う年老いた男性(デューク:ジェームス・ガーナー)がノートに綴られた若い男(ノア:ライアン・ゴズリング)と若い女(アリー:レイチェル・マクアダムス)の青春の物語を読み聞かせていく。

若い男女の出会いは、避暑地に遊びに来ていたアリーへ対するノアの一目ぼれで始まる。このときの出会いから受ける感情(=愛)を大切にし、貫き通した主人公は、それを誰にも負けないと自負している。

名を残すことなく、ただ平凡に死んでいく自分であるが、人を愛するということに関しては誰にも負けない部分であるとモノローグで語る。ノアの台詞がこの物語すべてを支配している。

都会住まいで資産家の裕福なアリーと田舎に住む木材工場で自給40セントで働いているノアが社会的にはつりあうはずが無い。事実だろう。それを否定できない時代設定と状況設定である。当人たちもそれを自覚している。

社会の仕組みに絡みとられるのが弱い個人である。そのため女性であるアリーには未来があり、男性であるノアには未来が無いのだろう。立場を裏返すことで男尊女卑の社会状況で力(=地位)の無い男性の惨めさが語られる。それは女性の惨めさを表してもいたのだろう。

アリーの選択は、結果として時代の流れに逆らうものであり、教訓として述べられた母の生き方を踏襲するものではなかった。道が二つ示されたとする。棘の道と順風満帆の追い風の道。どちらの道を選択した場合も当然それは自己決定で行っているのである。選べないという選択は無い。他人が進めた道を選ぶのも自分なのである。選んだ道の善し悪しは自分が色を付けていく。

映画では主題ではないから社会的な性に言及はしない。属性に左右されない愛情、純粋に存在する愛情を描写する。属性に左右されない愛情は信じるという範囲内でしか成立しない。自分の心を信じる。それに尽きる。何ものにも侵されないこの部分には神がいる。

清濁併せ持つのが人間である。そして様々な感情をカタチとして表すのが人間である。それらすべてを包み込む愛情は人を超えて、人間存在から浮遊し何物にも属することなく漂うのだろうか。大地から離れた人間究極の形なのだろうか。情報化社会というモノから離れた社会の仕組み(=生活)が何物にも依存しない愛というカタチを明確にしはじめていると感じた。
愛を信じて生きる人は孤独なのである。幸せは実はそこにしかないのかもしれない。

1・キャストがいいです。主人公のライアン・ゴスリングは今一番のお気に入りになりました。「16歳の合衆国」の主演でも見せた遠く透きとおる達観した表情は誰も真似できないのではないかな。アリー役のレイチェル・マクアダムスも若さの表現がよろしかった。と、母親役は私の大好きな映画「ザ・コンテンダー」で主演を務めたジョアン・アレンで、相変わらず素晴らしい演技でした。

2・癒し系の恋愛映画の部類には入らないと個人的に思うけど、よくできたストーリーの映画でした。

3・エンドロールの最後にケミストリーがプロモーションでしゃべるけど興ざめする。便乗商法は嫌だね。
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by ssnostalgia | 2005-02-07 12:41 | movie
ブログの使い方
【1月】観た映画。読んだ本。
ブログの使い方についてTBを頂いたので、、

ブログを始めて思ったのだけど、すごい速度で考え方(=考える姿勢)を消費していると思うんです。悪い意味で忘却していくしされていく感じです。消費するためには燃料が必要で過剰な消費は人間の発想を枯渇させる。枯渇後は消費する人間すらありえなくてさ。
もっと上手な使い方ができないかと思っています。

で、新しい試みとして、はじめたのが本と娯楽の時系列化です。他者との関係なく他者の関係を築いていくブログに存在する異分子、あるいはエイリアンを飼ってみようと思ったのです。

読んだ本と見た娯楽を表示しているのは、自分の経験の中から言葉を作っていくのだけど、そのベースになるのは本と娯楽で、知らない他人と共有できる有効な情報だと思っている。読んだ本すべてをコメントするほどではないと思うので、事実だけ簡単に並べて私が考えていることのベースが少しでも多く伝われば良いとおもって表示しています。伝わった先に何があるかは知りませんが。笑

ネットで書かれているデジタルな部分からその先にいる本人を想像するのは楽しい。もっと楽しいのは、本人を離れても独立してソンザイできる考え方を感じることです。
コレはカッコよさでもありますね。
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by ssnostalgia | 2005-02-04 12:37
2月に読んだ本
02/01- 性愛の日本中世史 田中貴子

02/01-02 思想への望郷 寺山修司対談選
時代に名を残す?思想家・著述家との対談。「書を捨てよ、街へ出よう」の寺山修司の存在の意味や成し得た事は私には良く分からないが、60年代~70年代への橋渡しをした人物であったのだと感じた。鶴見俊輔・三島由紀夫・塚本邦雄達のとの対談は70年前後に行っているが、そこでのやり取りは私にはピンと来なかった。これは事実。
当時の世界感は、私達(=我々)の手で変えることができる!とアタマを使って考える人皆が感じられる時代であった。今に時代に生きる私には当たり前すぎる事実として非資本主義の挫折は挙げられる。であるが、当時はそうではなかったのだろう。その当時の思想の先にはユートピアがあった。思想は今もある。しかしながらその当時の思想は挫折した。

寺山修司の対談に関しては、思想が挫折したあとの80年代以降の対談がよろしいと思う。物語としての<宗教>岸田秀との対談内容は、素晴らしく凝縮され、対談の中で「奴妃論」(天井桟敷)の持つ「主人が欲しい主人殺し(=オレスティア・コンプレックス)へと導かれる。神を殺した人間は寂しく外部に神を求める。神を殺したその先を求めない寺山修司には「思想への望郷」という言葉が良くあっていると思う。敗者の思想が似合いすぎる。コンプレックスの塊なのだろう。

02/01-3 酒とつまみ
今回で6号めです。相変わらずのおバカな感じが良い。気負っていなく、のんべんだらりとした作られ方がいいのだろう。

02/03-10このつまらない仕事を辞めたら、僕の人生は変わるのだろうか?
人間の悩みは総論では同じである。他の人と安易に比較して自分の「幸・不幸」の位置を各論で出す人がいるが、これはあまり意味が無い。他人のゲームは他人のゲームで自身のゲームとは違うのだ。

他者の中に自己を含めて、客観的に自身を見ていくとどうなるだろうかと考えると、検証する他者の枠を無限に広げていかなければ各論に客観的な意味が無い。無限事象を有限化し、ゲームの条件を自身で決めることになると、客観性はどこにも無いのだろう。本書では、50人の人生で人間の総論を見せる。が、50人の各論で自身の位置を図ることはやはり意味が無いのだろう。作者の意図は自己決定の賛美である。

02/09-12 オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す
女性をオンナとしてあり続けるよう縛るのは「女性」である。これを言い換えると、男性をオトコとしてあり続けるよう縛るのは「女性」ある。となる。性のあり方を縛っているのは「女性」であるし「男性」でもある。支配と被支配はペア(=様式美)なのだろう。
多くの女性は、女性として生きる事を念頭に置いて社会での自立(=一人前)を目指していると感じるし、自立を目指して生きている「私」を他人からも感じるからこそ、その相手に愛おしさを感じる。これは性別とは無関係で普遍的なことだと信じてやまない。
かつては、「男性」でありれば一人前であったのだろうが、オトコだからが無条件に肯定はされない社会である。こういった状況の下で「女性」にこだわり、オンナとして生きることを目指すことは他力本願のなにものでもないのだろう。裏を返せばすぐにわかることだ。
本書で述べられる、早婚のすすめなどは間違っても女性は選択してはいけないと感じる。津田塾大学の教授が作者。11刷だという。売れているのか、授業で学生に買わせてるのか解らないが。。

02/12-13 しゃべれども しゃべれども
激しくオススメします。数年前に読者投票でナンバーワンになった小説の文庫版を読みました。会話のにがてな対人恐怖症の優しい登場人物たちが古典芸能の落語を通して関係を持っていくストーリです。

小説の中で「落語」と「茶の湯」が同じ意味で取り上げられている。それは、私が日ごろ感じることと同じ内容でした。本書では人との関係に持つ気持ち(=一期一会)に、古典芸能がもつ意味を込めている。

何度となく会う人とも、その日その瞬間は本当に一度きりで、同じ条件は一度も無い。すべての機会はただ一度きり。だからこそ、共通して認識できる様式に人はよりどころを見つけ、見ず知らずの人とも様式を通すことで理解を深める。ここで言う様式は、落語や茶の湯には限らない。

各個人に共通した様式が獲得される、もしくは、共通した様式が獲得されないまでも様式の存在を認める感覚が獲得されると良いのになと、「古典」の意味をそこに求める。

02/14-17 八年後のたけくらべ
男が担う家長を女性の夏子は背負って生きて、だからこそ歴史に残る作品を残せたのだろう。本の内容は妹の視点から樋口夏子を追いかけ、男の偽善を暴いていく物語。

02/15-16 (再読) 双調平家物語 2 栄花の巻Ⅰ(承前)
大化の改新で暗殺される息子を持つ蘇我蝦夷の巻。蘇我馬子が嫡男の蝦夷に語る「男と女」の関係は、そのまま帝(=女)のあり方を浮き彫りにしている。

以下抜粋、、

「帝というものは、それを戴く人のためにある。帝が、己を欲しいままにして我欲をつのらせたなら、国は乱れる。帝に必要なものは、己を空しくすることができるかどうかだ。いかなれば、己を空しくすることができるか。男というものは、どうやらこれがなかなか出来ん。なにしろ、男には、股座にとんでもないものがあるからな。」

中略

「男というものは困ったものだが、女というものは、どうも違ったものらしい。男を得ることによって、女であることを全うした女は、どうも己を空しくすることが出来るらしい。・・奢らず、気立てよく人に尽くす。帝というものはそのようなものでなければならん。・・女であることを真っ当出来た物は、それ以上のものは望まん。」

以上

「男」が胡坐に持つとんでもないものとは欲望の比喩である。「男」以外は欲望を持たないのではなくて、欲望を持つものが「男」なのである。あるべき帝のあり方は、欲望を捨てた象徴であり、そのままあるべき女のあり方という。

女を全うしたい欲望をもった女はなんと形容したらよいのだろうか。
女を全うしたいが女をまっとうできない女はなんと形容したらよいのだろうか。
女(=帝)が欲望を持ったら女を廃して男にならざるを得ないのか。
女がすべて男になったら男はどこへいくのか。

02/18 オカルト

彼女は小説のほうが圧倒的に良い。断片の積み重ねで全体を見せようとしているが、デジタルな作家には難しいとおもう。

02/18ー20 『下山事件(シモヤマ・ケース)』

敗戦国日本は戦後GHQ支配下にあった。日本人の価値観が反転する世界が訪れ、日本は完全に敵軍の支配化に置かれた。法人(自然人以外で、法律上の権利義務の主体となることができるもの)として国が存在を認められたら国として歩き出す。国が人としての人格を持つとすると、その人格が歩き出すことになるが、この国の人格はなんなのかといまさらながらに考えさせられてしまう。

日本が戦後国として歩き出した背景には、ソ連・中国を意識した欧米各国の赤化を恐れる状況があり、日本の目先には朝鮮半島が横たわっていた。恐れたのは外部の「赤」だけではない。「赤」は外部だけに存在したのではなく、ニューディーラー(左翼のリベラリスト)としてGHQないの派閥争いを行っていた。結論から言うと、内部の権力争い・勢力争いが、一国の人格になり進むべき方向性(=下山事件からの、、)を決めたのだだと、本書は述べている。

下山事件。この1つの事件を境に、日本が朝鮮特需の恩恵を受けて経済大国なっていくと本書は述べる。当時の日本は善も悪も政財界も闇社会も同じ穴に棲む状況を良く捉えている。一読の価値はある。今から50年前の事実を問い詰められた事件関係者の弟が述べる言葉を引用する。

「確かにあの時代はいろんなことがあった。誰もが生き抜くことに必死だった。兄貴だって胸を張っていえないようなことをしたことはあるかもしれない。だけど人を殺めるようなことはしていないと俺は信じている。・・・仮にもし、仮にだけど下山事件がなかったら、今の日本はどうなっていたと思う?もしかしたらドイツや朝鮮半島のように南北に分断されていたかもしれない。少なくとも今の日本は大きく形を変えているはずだ。結果としてそれが良かったのかどうかは、俺には分からない。でも少なくとも、今この豊かさは望めなかっただろう。」

この台詞を引き出した作者と関係者の弟は、作者が関係者の弟の信頼を裏切る形で引き出せたものであるが、簡単に拒絶することなくまたされることのない強く柔らかな人間関係と人間性を描いていた。

1・「下山事件」の取材から別な形でパクリ本が出版されたようだが、それを許容する森さんのスタンスは肯定できた。「世界はもっと豊だし、人はもっと優しい」は彼の生き方なのだと思う。

2・映画でしか知らなかったし、若いと思っていたが1956年生まれでまもなく50歳。この年代が人間としての熟成しきったところなのだろう。他の本ももっと読んでみようと思う。

3・映像を通しての物事の切り口の土台に、彼の文章があるのだと本書で感じた。

02/20-21 世間のウソ
世の中の仕組みとして「ウソ」を通して隠していたほうがいい事はあるし、世の中のが作られている過程で矛盾はどうしても出る。矛盾が出た場合にはその矛盾に対して説明をするか、矛盾が無いことを説明するかのどちらかだと思うが、説明すべき対象などは実は見えないので、結果として矛盾を説明しないまま矛盾を含んで物事は進んでいく。ある段階で、その矛盾が暴かれたとき正当化しようとした場合はウソをつくことになる。

日本社会のウソを集めた本書。目次の内容をじっと眺めると当事者意識から離れたところの事実が多いと皆が感じるはず。そう感じた私を含めた我々が、日本社会をダメにしているのだと感じた。ウソを暴くのは片手まではできないので、こういったことは作家さんや物書きさんの仕事になるのだろうけど、私たちが最小限できることといったらプロテストすることだろう。
そうなんだけど、、、、

偽善系」や「そして殺人者は野に放たれる」の作者、日垣 隆さんの本で、売れているらしい。

02/22 ちゃんと話すための敬語の本

統治するための仕組みとして冠位十二階が作られた。社会を治めるための身分制度である。絶対的な力は必要とされまた演じられ続けてきた。そういった時代に作られた日本独自の言葉である敬語。敬語は社会の仕組みとあいまって尊敬・謙譲・丁寧と社会的な自分の立場に適応した使い方使われ方があった。

身分制度がなくなってしまった現代社会での敬語の存在自体が矛盾である。人を呼ぶ時に「おまえ」「きみ」「あなた」と使う。その意味する距離感が身分制度があった社会と現代社会では優劣がまったく違う。身分制度のある社会では「おまえ」が最上の意をもっていたが、現代では人に対して「おまえ」は失礼なのである。(親しい間柄は別)その他、敬語に関する楽しい矛盾がいくつも分かりやすく書いてある。

言葉を作り出した社会が無くなり、言葉だけが残って、現代を拘束する。拘束された現代は、言葉から逃れられるのか?それを疑問に思う天才橋本治は、十代向けの本書で、若者に新しい価値観の想像を問いかける。言葉をうまく使えない若者こそ可能性があるのだろうか?大人の価値観は崩せないのだろうか?観念と現実の倒置をさらりと扱ったシンプルで素晴らしい本である。

02/22 希望格差社会
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by ssnostalgia | 2005-02-01 00:00



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