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<   2004年 06月 ( 34 )   > この月の画像一覧
選挙ポスター
「女はダメだ!と思う男」と

「男はダメだ!と思う女」は

同じ数いるだろう。

「男はダメだ!と思う男」は趣味の問題で片付くけど

「女はダメだ!と思う女」は実はものすごく多くて

こっちは深刻な社会問題だろう。

と、いくつもの女性候補の選挙ポスターをみてあらためて感じました。

女の人の足は女の人が引っ張ってる。
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by ssnostalgia | 2004-06-30 09:05
つゆらしさ
梅雨らしくなってきました。
しっとりとした雨の中に響く朝のお寺の鐘はいいものです。

台風が7号と8号が生まれて今週末は「血沸き肉踊る、、」って感じになりそうです。1つ心配なんだけど、台風7号と台風8号が合体して15号にならないように、、、笑
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by ssnostalgia | 2004-06-30 07:04
「きわめてよいふうけい」
制止画を表現媒体とする写真家が動きをもとめ?画像の連続=映画を撮りました。「きわめてよいふうけい」の感想です。21時30分からの上映でしたが渋谷の映画館はちらほらと空席が目立つ程度で、結構混んでいました。

・記憶障害になった写真家のドキュメント映画です。写真家が撮る写真は静止画という意味では断片なんだけど連綿とつながるものが根底にはやはり必要不可欠。だから、記憶障害でそれを欠いた場合、結果としての単体での写真はやはり何も語れないのだろうと主人公をみて感じた。

・映画は動きがあるが初めから終わりまでが写真にすると一枚に相当する。「絞りきったクリアーな写真一枚」を表現手法とする写真家のベクトルと今回の「ぼんやりとした画像の連続の映画」が語るものが同一のベクトルなのかと不思議に思った。

・同じ写真でも1分見るのと30分みるのとでは印象が違う。写真展示の立場とすれば鑑賞される時間は考える余地から離れる。人それぞれ写真を見る時間は違うのでそれを考えても仕方がない。だけど、映画は時間設定を監督が決定するので画像を時間という係数で区切らなければならない。全体としてカット割が非常に長く退屈に感じた。観客に多くを求めすぎではないかと感じる。

・ニュアンス的には「ピントばっちり」と「ピンボケ」が「写真」と「映画」或いは「瞬間」と「時間のながれ」の違いと同一性を表しているんだろうかと考えたけど、結局わからなかった・・
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by ssnostalgia | 2004-06-28 12:56 | movie
男と女と多様性
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私たちには性別があってそこには男性と女性が存在する。原生生物には私たちのように性別は必要ない。つまりは性は必要ない。無性生殖で分裂して増えていくのが最も効果的だといわれている。単体で分裂を繰り返すため時間も必要なくパートナーも要らない。あるいみすごく合理的だ。

私たちは性を利用して繁殖する有性生殖を行っている。おおくの生物は遺伝子の乗り物だから人間もそれに漏れず遺伝子を残すために生きている。

有性生殖は効率が悪い。その理由が多様性を生むためで、親の細胞とはちょっと違った細胞を作るための仕組みを持っている。そのため遺伝的な多様性が生まれる。多様性があるおかげで、環境の変化にも適応し生きのびてきたとされる。マクロな視点で種族を捉えたとき、自然界の変化に対応していくことを目的している。つまり、変化に対応していくための種族としての多様性が個人が存在するより先に個人の中に存在する。

社会を切り離して個人レベルに話を移すとき、私たち個人は異性を含めた他者に何を求めているのか?容姿、財力、血筋、地位、遊具、知性、権力、安心、社会常識、、、、
上げ連ねてみたけど、どれもこれもほんの表層でしかない。

遺伝子の仕組みによって創られた人の世界は多様性で満ちていて、そこからはどうやっても逃れることが出来ない。その仕組みから逃れることが出来ないからこそ、ほんのささいな紙一重の違い(=多様性)を認めたくない心が生まれ、つまらない争いを生んで、だから生きるって効率が悪いんだろね。
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by ssnostalgia | 2004-06-25 16:33
見学の感想
で、感想です。
今回の建物はコンクリート打放の外壁を持つ建物です。コンクリートは汚れやすくまた劣化も起こりやすいため表面処理として塗装をして経年劣化を防ぐ考えかたになります。塗装材としてはいくつかありますが、素地感を生かす場合クリアー系のフッ素を塗布します。だいたいのコンクリート打放建物で触った感じが粉っぽくなくシットリした感触のものは塗装をしています。

塗装するコンクリートの出来上がりの状態に大きく影響を受けます。「コンクリート打放」といわれますが、綺麗に打ちあがることはあまりなく、補修したり汚れを取り除いたり成型したりとなにかと手をかけないと「コンクリート打放」として仕上げになりません。

もちらん手をかけるので傷跡を直した傷が残るのです。これがいやらしいのです。傷跡の傷は最初は目立たないのですが、年月がたてばたつほど目立ってきます。傷を隠すための処置としては必要なのですが、補修はできればやりたくないが設計者の認識です。(現場施工者はちょっと違う。)

今回の現場のコンクリート打放に塗装するフッ素には黒色を混ぜて黒いコンクリートの仕上がりを目指しています。補修が必要な箇所がいくつかあるのですが、補修箇所としてどこまで手をかけるかが大きな判断で仕上がりに大きく影響してくることになると思っています。

職人さんもメーカーさんも今回の仕様ははじめてみたいでやってみなければわからない部分が多いみたいです。(暑い日中に外で、コンクリートの色で大人10人が延々と議論する光景は普通の人にとっては不思議に思えたみたいです。。)

資料など条件が出揃った段階で残されたのは判断するだけです。判断をする場に立つと毎度の事ながら本当にドキドキします。(笑)「イメージと現実がいっしょだった」と感じる快感はいいものです。

で、なぜイメージと現実の同一性を心地よく感じるのかは不思議だ。
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by ssnostalgia | 2004-06-23 12:24
疑心暗鬼
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言葉は難しい。言葉は数値化できる断片的な「デジタル」だからその発せられた言葉の先に感情移入できるのは言葉の意味を自分の言葉として解釈できた人の心の中だけで、そこには連綿と続く「アナログ」として自分の経験を積み重ねてきた人への優しさと包容力が必要。

と、疑心暗鬼は人のAD変換(アナログーデジタル変換=言葉と心の結びつき)を妨げる。「疑心暗鬼」の克服は、顔の見えない社会、心を感じにくい社会となってきた現代のキーワードだね。みんなは克服できるかな?アハハ、、、

意思疎通に齟齬があった場合の修正は私には分かりませんが、「なにが?」「どこが」「何で?」と様々な問いかけは外交の一歩。

写真はラオス、川を渡る渡し舟。。
言葉も通じずどこに連れて行かれるか不安だった。笑
でもねニッコリ笑う船頭さんの笑顔がねわたしの不安をなくしたんだ。
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by ssnostalgia | 2004-06-23 00:45
スローフード
わたし水道水はそのまま飲めないので鉄瓶で沸かしてからお茶なりコーヒーなりにします。鉄瓶で沸騰させた水を冷ますとまろやかになるので市販のペットボトルの水より好きです。お茶などは水出しで作っていまして熱をかけないので何ともいえない柔らかな美味しさが味わえます。ジャスミンティーが最高に美味しいです。水出しなので時間が掛かります。いうなればスローフードでしょうか。夏はお茶もアイスコーヒーも水出しで冷たく冷やしたものがいいですね。

写真の奥に写っているのが水を沸かす南部鉄瓶です。そのほかは素焼きの白坪トッケー柄と天然木のテーブル板です。どれもすごく気に入っています。ドリンクはカンパリソーダとラガービール。クルミパン、それにあうおつまみセットで、酒好きで食の細い私にはぴったりでして。。写真あんまりよろしくなくてすみません。笑
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by ssnostalgia | 2004-06-20 12:36
「頭の中での想像」
頭の中での想像を規制する事は許されない。頭の中では何を考えても良い。それは制限があるが、文章で表現してもよいし、映像にしても良いだろうし、風俗店などは合意の下だからそこは「頭の中での想像」の範疇で、そこにモラルを問われるいわれはないと考えています。

「パンツが見たい」ミラーマン植草は見たいという欲求を「頭の中の空想」で処理すればよかったのに、一般的なモラルに働きかえられ「頭の中での想像」さえも抑圧してたから見たいという欲望を制御できなかったのだろう。「頭の中での想像」から逸脱した今回の行為は、真偽を問われてしかるべきなのだと思うが、「頭の中での想像」を肯定しそれを現実と割り切っておけばバッファは作れたとおもう。

・学者としての能力は切り離して考えるべきで、復帰できれば良い。
・「事実」として起こったあとの「道徳」が問われてしかるべき。
・世論は「頭の中での想像」を一般的なモラルで抑圧しているからこそ
 逸脱者に対して攻撃的になる。(聖人賢者なんていないのにね。)
・裁判は、法の下において行政を裁くものであって、法は個人を裁かない。
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by ssnostalgia | 2004-06-19 15:45
酒とつまみ
私の愛読雑誌 酒とつまみの最新号がでるみたいです。編集者と縁があって創刊号から読ませてもらっています。バカな雑誌です。笑。中央線のすべての駅で下車してホッピーを飲む「ホッピーマラソン」って企画が面白かったね。他もバカ企画が盛りだくさんで酒飲みじゃなくても面白いです。

中島らも、井崎脩五郎、蝶野正洋、みうらじゅん、とつながるのんだくれインタビューは必見です。今回は高田渡さんだからなおのこと楽しみだ。
今回のチョイスはがっちり時代を捉えているね。
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by ssnostalgia | 2004-06-19 09:56 | book
立ったまま埋めてくれ
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本文より
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静けさについてもしかり。人がたくさんいてにぎやかであれぼあるほどいい、というのが彼らの信条だった。これはロマの世界どこでもおなじだと思う。ひとりぼっちの人問というのは必らず、何か規則に反することをしたために汚れた老となり、グループから排除された人と見なされた。ひとりでいなけれぼならないというのは何かまずいこと、恥ずべきことがあるということだった。ジプシーは想像を絶する辛酸を舐めてはきたが、孤独だけは例外だ。それは確かである。

「マイノリティ」というのはよく知られている。彼らは文化的にはマージナルな存在であり、一時滞在者としては、新しい居住地でも、他のおなじように隔離された「親族」、つまりもうひとつの離散の果てにそこへたどりついたグループからも離れて、身の置き所なく生きていくことになる。

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ジプシーの暮らしについて書かれた本書は、単一民族、単一国家の宣言してしまっている日本人には理解しがたい民族=血族として生きることの意味を書いている。民族として集団で生きる。現代の僕にはわかりづらい思想だが、人間の歴史はここに始まりそして現在も続いている。

「集団として生きる」ということは、団結力を強めるため他の集団、部族、民族と差別化が起こり、個人は何かしらに属する社会となる。「集団として生きる」を選択する個人には、当然「力」はなく、それ故に個人には何の発言権もない。

逆にいうと「集団として生きる」(=属性をもたない)を選択しない人には差別は生まれ得ない。相手の立場が自分の立場となるからだ。属性にこだわる結果起こるのが民族間や宗教間、人種の差別であり紛争であり戦争だ。個人の独り立ちを許さない社会がほとんどだから世界は紛争であふれている。

現代社会(ぼくが住む日本)は価値観が多様化し、かつて自己を他者と比べることで確認できた相対化された自分の位置がすでに見えなくなってきている。比較する事で得ていた優越感や劣等感をもつことが難しい社会となった。その結果、自分が作り出した不安という「見えない敵」と戦う結果になったけど、これを克服するかは個人の資質の問題だ。

誰でもが自分個人の力で生きたいはず。個人で生きるのは、つらく悲しいが、歓びがある。「立ったまま埋めてくれ」と題された本書は、幸か不幸か社会基盤が整わず、選択の余地なく集団で生きるジプシーの社会を書いている。悲しく、切ない物語に「属性にこだわっていきる」時代の終わりを感じる。田舎が良いとか昔は良かったとかの懐古主義は何も生まない。孤独は寂しいけどね。

立ったまま埋めてくれ 
ジプシーの旅と暮らし

イザベル・フォンセーカ著 
くぼたのぞみ訳

青土社 2800円

1998年 11月 20日 初版
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by ssnostalgia | 2004-06-18 23:06 | book



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