Top
<   2004年 05月 ( 21 )   > この月の画像一覧
友達夫婦
下に投稿したものは数年前の何かのコンペだったと思う。
友達夫婦にモデルになってもらいました。

内容的にはかすりもしませんでしたが(笑)、現代社会(資本主義社会の現代)ってその前後で説明されていると思う。下に書いてある文章は応募時に求められた要約コメントでした。
[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-31 13:25
アダムとイヴの子供達
アダムとイヴは、神との約束を破り、知恵の実を食べてしまいまいました。神は、神を越えようとした彼らを決して許すことなく、楽園から追放する罰を与えたのです。罪の意識は許されざる原罪として人の心の中に残り、神の裁きを終え、楽園に戻る事を心に思い、無心に働く人々を生み出しました。 しかし、人の禁欲性からは、資本と契約がもたらされ、資本主義という甘美な花が咲き、いつしか人は自分たちの手で楽園を創りはじめたのです。それを知った神は、驚きのあまり息絶えてしまい、人はついに神の座に就くことになったのです。

止むことのない生産と消費こそが人の存在理由となり、「禁断の果実」を口にしてまでも楽園を創る欲望から「アダムとイヴの子供達」も逃れることはできないのでした。
[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-31 13:08
天気
天(神の)気(気持ち)って書いて「天気」って言うんだってさ。
どっかの天気予報しが言っていた。
だから当たらないんだって天気予報は。。。笑
明日から雨の予報ですがはずれるでしょうな。

洗濯とお布団が干し終わったのであとはビール。
前にとった写真なんですが、おつまみはこんなんがいいな~

パルメジャーノ・レジャーノ
オリーブ
カクテルオリーブ
ドライトマト
ブルーチーズ
ピスタチオ
三つ葉のサラダ

ヒマワリ風に盛り付けまして、、
[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-30 14:56
「シロート」
a0016783_91314.jpg
小さな小売店で店主が経営しているお店が好きだ。魚屋、酒屋、肉屋、豆腐屋、八百屋、パン屋、コーヒー屋などなど。珍しいところでは、昨年の冬に油屋を見つけた。灯油や蝋などの燃料をうっているが、私は灯油と炭(秋田杉の炭)を買ってお世話になった。

彼らに共通するのは商売に対しての「シロート」と言うことだと思う。効率とは無関係に商売している(だろう)彼らは絶対に儲かっていないと思う。魚屋のマグロの中落ちは市価の半額だけどめっちゃおいしいし、豆腐屋で買う出来立てのほんのり暖かいオカラは具沢山でがんもどきを買うとおまけしてくれるし、卵をたっぷりと使ってなのか素朴な味のパン屋ともいえないパン屋のゲンコツドーナッツは日持ちせずすぐに硬くなるし、豆と器具を売っているコーヒー屋は最近はやりだした円錐型のドリッパーを延々と説明しだして20年前からお店に飾ってあるのにメディアに取り上げられる今の今まで円錐型のドリッパーは売れなかったと笑いながら話すし。。

業務マニュアルで働いていない「シロート」のお店は規模として経済のシステムに乗らないため淘汰されているのが現状なのだろう。だけど、時代についていけなかったのか頑固だったのか必要がなかったのか理由は様々だろうが「シロート」のお店には貨幣の「交換」にとどまらない何か劇場的なものがあって、スーパーマーケットのレジでの支払いとは絶対的に違う魅力を皆が感じているはず。(煩わしいと感じる人もいると思うけど、、)こういった細々?とやっている「シロート」のお店はもうちょっとしたら生え抜きのモノはなくなるのだろうと考えると寂しく思う。

煩わしい関わりをなくしたい部分が効率を生んだのは事実だけど、貨幣の交換の場のあり方は効率(経済)で計るモノではないと感じる。
[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-30 08:53
スケール感
仲間内で盆栽がはやっている。時代は観葉植物ではなくて小さく育てる「盆栽」なのだろう。まずスケール感がアンバランスで面白い。昔からあった支配者気取りの箱庭的名なミニュチュア志向ではなくて、情報化社会だからこそ生まれる感覚=距離感や時間などのスケールの喪失の延長で、その部分を楽しむということなのかなと私は考えている。小さなものが大きく感じられたりすることやパソコン上で画像などを拡大できる感覚というか、任意のスケール感みたいなそんなところです。

「スケール感」(=距離感)がなくなると買春、売春が精神的に行いやすくなるという話がある。女子中高生(もちろんそれに限らず)の売春は主にケータイを使ってやっているが、交渉相手は彼女たちがリアルな空間では接することも嫌う「オヤジ」である。なのに交渉が成立するのは、スケール感が無いからだ。面と向かって交渉した場合に「オヤジ」との関係なんて結べないだろう。「オヤジ」とのアンバランスな関係成立は「スケール感」がない媒体を使ってこそ生まれるのだろう。

「スケール感」についてもう1つ、「浜崎あゆみ」はスケール感(=人間くささ)がないサイボーグみたいだから人気があるし、最近名前は聞かなくなったが「椎名林檎」はグロテスクな組み合わせでスケール感をなくしていて、だから人気があったのだろう。

まともなスケール感はどこにあるのだろうと疑問が出てきた。
[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-26 12:54
「モザイク」 社会適応
a0016783_9285.jpg
田口ランディさんの小説「モザイク」を読んだ。自分探し系の物書きさんで、よく知られているのは親兄弟などが持つ家族的な問題や幼少期のトラウマ的なものを盛り込んだ「コンセント」で、これは映画にもなっている。続編的なものとして幾つかあるが、彼女は精霊とか巫女さんとかエクスタシーとかの原始的な人間が持つだろう力をモチーフとしてそれを信じよりどころとして書いている。身体感覚を信じているという意味で私は好感が持てる。

「モザイク」は子供の成長と社会適応を題材に書いている。身体感覚(痛いとか危ない)を身につけないで(経験しないではなくて経験出来ない状況)成長した子供はろくな大人にならないとよく言われるが、そういった子供を否定することを問題にするのでなく、大人は子供に無償の愛情を注ぐことをざっくりと表現していた。子供が成長していく段階で社会に適応していこうとする意思やその原動力はそういった関係の中にしか生まれないのだろう。

個人の認識のよりどころ、関係を築くベースとなるモノがこれまでの社会では「身体感覚」であった。しかしそれが機能不全の社会となっている。身体感覚を経験として積み重ねることがしづらい状況になった社会が情報化社会である。良いとか悪いとかの問題ではない。しかし、情報化社会にも「身体感覚」の役割を担う代替が社会の仕組みの中に必ずある。そして、その代替となるものを基盤とした社会が近い将来成立するが、それは人間の本質を根本的に変えていくのだと思う。

写真は2002年ミャンマー、ヤンゴンの屑屋(?)の少年
身体感覚はこうやって培われていくんだろうな。
[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-26 00:43 | book
血縁にコダワル
a0016783_205029.jpg
「家族」は血縁という制度の枠では括れない状態まで進んでいる。良いとか悪いとかは抜きにしてそれを認めるのが当たり前になって、血縁に括られない場合がハッピーな状況を育んでくれる。血縁に限らずなにかにこだわると得るものと失うものは二者択一なので同じ数だけ出てくるが、血縁に限って言うとそれにこだわった結果は親(年長者)が得るものが多く、子(若年者)は失うものが多い。

子供も大人になって血縁にコダワルのだけど。。

と、私の生みの親であって育ての親である母親を初めてギュ~ッとしばらく抱きしめてみた。私はいたってまじめに言葉に出来ない気持ちを伝えたつもりだったが、血縁にコダワル母親は照れくさかったようだ。嬉しそうだったけど。
[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-24 23:19
末端価格
覚醒剤 約260キロ(末端価格約156億円)を押収 などという新聞の記事に代表される価格として「末端価格」という言葉がある。商品が消費者に渡る段階での最終的な価格のことだ。何百倍も値段が跳ね上がる。グラム1万円のモノが100グラムあった場合では原価100万円だが実際は1億円になったとか、、、

その逆の場合を建設業で例えてみる。

平米1万円のモノを100平米ほしい場合は単純に100万円(=コスト)かかる。で、実際にそれを作るときいくら必要なのか考えたら100万円もコストは掛からない。半値ちかくの値段(=コスト)で出来るのだろう。仮にその価格を50万円(=プライス)としておこう。

上に書いた原則を使えば5000万円(=コスト)の家は2500万円(=プライス)で作れることになる。コストとは定価(設計価格)でプライスとは売値(物自体価格)と考えていいと思う。

残りのコストはどこに消えたのかはそれぞれの経費になる。5000万円の建設費だったとすると請け負った業者(元請)が1000万円を経費(売上げ)として残りの4000万円で工事を請け負える業者(5000万円だが4000万円で出来る業者)を探す。探すと4000万円で出来る業者がいる。4000万円で受けた業者は数百万円を経費にとってその差額の工事費で出来る業者を探す。その交渉の結果が「末端価格」(=この場合2500万円)になる。

モノの値段なんてあってないようなものだとよく言われ、コネと人件費(経費)がコストを決める。これは建設業界だけに当てはまることではないと思うが、お金をばらまく仕組みとは良く出来たもので、会社経費をつかっての接待などはだから存在するのだろう。
これは決していいことではないと思うがこの仕組みで業界は成り立いる。
[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-24 00:07
シラノ・ド・ベルジュラック
都営新宿線の初台にあるCyrano de Bergerac(シラノ・ド・ベルジュラック)
住所:渋谷区初台1-43-2吉永ビル1F
TEL:03-3374-0078
Lunch:11:30~13:30 Dinner:18:00~21:00
定休日:月曜日


ソラマメのポタージュ

鰯のバジルソース
a0016783_939234.jpg

a0016783_9393790.jpg

a0016783_9395756.jpg

a0016783_9401483.jpg

[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-19 00:26 | bistro
「純粋贈与」の醜さ
「交換」と「贈与」と「純粋贈与」という概念と時間

純粋な経済活動は等価なモノの即物的な「交換」を表して、「米1升」=「味噌3合」とか「2000円の品物」=「2000円の貨幣」とか基本的にその場での交換になる。ここには交換をするだけなので人の内面に「時間」が含まれず、深い人間関係は生まれない。

送り主の送り手への気持ちを表す行為は「贈与」とされる。贈り物に気持ち(気持ちに贈り物を添えるが正しい。)を添えて相手に贈り、何かしらの目的を達成しようとする。送られた側もその見返りとして贈り物を送り返すまでは最初に受け取った贈り物とともに贈り主の気持ちを心の中に持っている。見返りとまでは行かないがそれに近い感覚があるだろう。ここには受け取ってから送り返すまでの「時間」が含まれるので、人間関係を育む。そういった意味で「贈与」は関係を育むためのものだ。

「純粋贈与」は「交換」でもなく「贈与」でもなくみかえりを求めない事をさす。自然は見返りを求めていないからそういった意味では「純粋贈与」を体現していると言えるかも知れない。ある人が道でお金を拾ったとする。それは「交換」でもなく「贈与」でもないので拾った側は「純粋贈与」を感じるだろう。「純粋贈与」は神秘的なモノとして感じられ、返す当てもない「純粋贈与」から人は永遠の「時間」の存在を感じる。

人が「純粋贈与」を行う側になろうとする場合、崇高な人間になったような感覚を引き受けなければならないが、これはやはり不自然で人が「純粋贈与」を行うことの内面には醜さににた何かを感じる。また、ある立場に立って決断を求められるとき「純粋贈与」を求められる場面に出会うがこれもイヤなモノだと思う。
[PR]
by ssnostalgia | 2004-05-18 00:41



XML | ATOM

個人情報保護
情報取得について
免責事項