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「純粋贈与」の醜さ
「交換」と「贈与」と「純粋贈与」という概念と時間

純粋な経済活動は等価なモノの即物的な「交換」を表して、「米1升」=「味噌3合」とか「2000円の品物」=「2000円の貨幣」とか基本的にその場での交換になる。ここには交換をするだけなので人の内面に「時間」が含まれず、深い人間関係は生まれない。

送り主の送り手への気持ちを表す行為は「贈与」とされる。贈り物に気持ち(気持ちに贈り物を添えるが正しい。)を添えて相手に贈り、何かしらの目的を達成しようとする。送られた側もその見返りとして贈り物を送り返すまでは最初に受け取った贈り物とともに贈り主の気持ちを心の中に持っている。見返りとまでは行かないがそれに近い感覚があるだろう。ここには受け取ってから送り返すまでの「時間」が含まれるので、人間関係を育む。そういった意味で「贈与」は関係を育むためのものだ。

「純粋贈与」は「交換」でもなく「贈与」でもなくみかえりを求めない事をさす。自然は見返りを求めていないからそういった意味では「純粋贈与」を体現していると言えるかも知れない。ある人が道でお金を拾ったとする。それは「交換」でもなく「贈与」でもないので拾った側は「純粋贈与」を感じるだろう。「純粋贈与」は神秘的なモノとして感じられ、返す当てもない「純粋贈与」から人は永遠の「時間」の存在を感じる。

人が「純粋贈与」を行う側になろうとする場合、崇高な人間になったような感覚を引き受けなければならないが、これはやはり不自然で人が「純粋贈与」を行うことの内面には醜さににた何かを感じる。また、ある立場に立って決断を求められるとき「純粋贈与」を求められる場面に出会うがこれもイヤなモノだと思う。
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by ssnostalgia | 2004-05-18 00:41
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