別れた彼女(=ケイト・ウインスレット)が記憶を消した。消した記憶は恋人であった彼(=ジム・キャリー)との記憶である。それを知った彼は、彼女の記憶を消そうと同じ道を行く。エターナル・サンシャイン。原題は「Eternal Sunshine of the Spotless Mind」 人は記憶を元に関係を築く。自分以外は他者であり、他者を自分と関係付けるため、記憶し、関係を築く。自分以外は「環境」だから、たとえば極論になるかもしれないが、鉛筆も他者であり、その使い方を学習し記憶して、そのモノ自体(=この場合鉛筆)との関係を築くことで、使い方を知り、関係を持ち続けることができる。関係を築いて初めて、自己との距離が図れ、どちらの存在も意味を持つ。もちろん他者に含まれる他人も「環境」の一部だから、例えで引合いに出したエンピツとなんら変わりはなく、存在意義を認めるのは、主体としての「個人」である。 記憶は誰のものでもなく、自分のものである。自己に依拠する記憶は、自身の判断の根本ともなる。だから記憶が消された場合、その記憶に留められていた関係は消滅し、自己と関係を持ったであろう「他者」を認識できない。エンピツを見てエンピツと理解できるのはエンピツを使ったことがあるものだけである。エンピツを使ったことのない人にエンピツを渡しても使い方が解らない事と同じ状態である。記憶こそが人間を導き人間として存在させている。 人類がサルから進化して進歩してきた根本が、個人が持つ記憶であり、さらに大きく言えば人類としての記憶である。個人が記憶を消去した場合には、おそらくそれまで関係があった他者を認識できないであろう。これは想像できる。「あなたはだれ?」「これはなに?」と疑問符が頭の中で繰り返されるだけである。 記憶を消した男女は、定めなのか記憶とは無縁に、再びめぐり合い、恋に落ちる。記憶にない見ず知らず関係としての他人同士が惹かれあい、恋に落ちていくのだが、映画の設定では、恋愛のまさに始まりに、その関係が近い将来破綻する(=喧嘩別れする)事実を突きつける。出会い直後で、まだ付き合ってもいない。将来喧嘩別れしてしまう恋愛関係であるが、お互いがその事実を認め「やりなおそう」「オーケー」で幕を閉じる。現実を受け入れるハッピーエンド?であった。 めぐり合う定め、言い換えれば「縁」となるだろうか、「縁」は記憶に左右されない。定め(=縁)を理由つけて説明することはできない。記憶と無縁の縁を説明するため映画では、ニーチェを引合いにする。 ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」に述べられている思想に永遠回帰がある。神なき世界を生きる大切な思想と思い、また、本映画の基調を支えているのが「ニーチェ」であるので少し長いが、引用。 「一切は行き、一切は帰ってくる。存在の車輪は永遠にめぐる。一切は死に、一切はふたたび花ひらく。存在の年は絵家印にめぐる。一切は破れ、一切は新たにつぎあわされる。存在の同じ家が。永遠に建てられる。一切は別れ、一切はふたたび挨拶しあう。存在の環は、永遠におのれに忠実である。 一切の事物が永遠に回帰し、わたしたち自身もそれにつれて回帰するということ、わたしたちはすでに無限の回数にわたって存在していたのであり、一切の事物もわたしたちとともに存在していたということです。あなたの教えはこうです。生成の循環が行われる大いなる年、とほうもなく巨大な年がある。それは砂時計のように、なんべんもひっくりがえって、はじめにもどらなければならない。こうしてまたあらたな経過が起こり、過ぎて行くために。」 神なき世界、神を否定するための難しい思想である。「永遠に回帰する現状を絶対的に肯定して、その中で最善を尽くし、最善を尽くす自分に生きる意味(=幸せ)を感じよう。」などと簡単に要約できる思想ではないが、私はそのように理解している。 永遠に回帰する世界の善悪をふくめて、すべて受け入れ、肯定するのは凄く難しいと思う。映画ではそれを肯定し、まだ始まっていない恋愛関係に対して「やりなおそう」「オーケー」のこの二つの台詞で永遠回帰(現実)を受け止めていた。この映画の主題がどこにあるのかというと、実は私にはわからなかったが、この近辺だろうとおもった。 1・すごく難しい映画だった。違う切り口で語ることはできると思うが、映画の存在に私が意味を見出すとこういった解釈になっちゃった。 2・連綿と存在する記憶と言うアナログの世界は、消去された記憶(=抽出された断片)を再生するとでも言いたいのだろうか?とも思った。 3・映画の表現のなかに、「私を見つめる私」や「私の中の私」をいくつも盛り込んでいる。客観性を求める表現なのだろうが、大きな意味はなく、監督の表現ボキャブラリーのひとつで、悪く言うと「手が滑った」のだろう。この表現に惑わされちゃった。(笑) 4・「マルコビッチの穴」は傑作だとこの映画を見て、再認識。 5・ジム・キャリーは「マジェスティック」(=私が一番好きな彼の映画)に迫る名演技だった!彼は選ぶ映画をはずさないね。 6・記憶や時間を扱った映画はこれからも増えるのだろう。「ドニーダーコ」や「メメント」など本来は普遍の定数だった「記憶」や「時間」が変数として表現されている。情報化社会はすべてを変数にしていくね。 7・「キリスト」と「アンチ・キリスト」の二つの持ちつ持たれつの関係を否定した作品であったのだろうと、感じた。このどちらとも無縁の関係が、本来は求められるべきもので、それを言葉で述べると「自然」なのだろう。「神が居た世界」と「神を殺した世界」のその先の「神」とは無関係の「自然な世界」があると私はぼんやりと思った。
by ssnostalgia
| 2005-04-02 08:40
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