希望格差社会
線形の時代から非線形の時代への移行はずいぶん前から語られてきた。線形の時代とは前近代・近代を指し、予測可能で予定調和を含意した安定した社会を基盤に、身分や肩書きなどの属性が支配する社会であった。人間と扱われたのは、前近代社会では支配者としての王侯貴族だけであったり、近代社会では革命を勝ち取った「男性」だけであった。身分や肩書きをなどの属性が作る社会は、悪い部分ばかりではなく良い部分も含んでいたが、時代の流れは、それを認めず、市民革命を象徴とし、絶対を否定する、誰にも命令されない社会、誰にも縛られない社会、誰にも抑制されない社会などを含む自己決定権を持つ社会を目指し、事実、その結果が現代なのであろう。非線形の社会とは、属性(性別や家柄)に縛られない平等な社会と言い換えられるのかもしれない。 非線形社会のメリットを一言で言えば「自由」なのだろうが、メリットに隠された部分を直視しないで表面的メリットだけを追ってきた事実は確かに存在する。現代の日本の状況を述べる本書は「希望格差社会」と現代を一言で表している。「自由」を追い求めた結果、実現されるはずの現実は、線形の社会では獲得された感覚(あくまでも感覚)を得ることはできたかもしれないが、非線形の社会は、右肩上がりを否定した社会だからこそ、人々の予測をことごとく裏切り、結果を手に入ることは極めて少なく、「挫折感」だけが漂う。それは大衆としての個人の「希望」をなくした社会状況をよく示しているのだろう。我々は「自由」を獲得したと同時に「挫折感」を引き受けたのである。 前近代は、危険の領域が明確化され、タブーを犯さない限り社会的な安全を永遠に獲得できた。武士は武士であり続けたし、結婚が男女間を支えた。近代は前近代の変形で、危険領域を制御し安全領域が拡張されたと考えられ、前近代と比べるとより理性を求める社会として考えることができる。この二つは位相としては同じと考えても良い。近代以降は「自由」という名の下に前近代・近代に存在した位相を取り外した。すべての領域での危険と安全が同居する不安定な社会であり、我々人類が求めた結果は、事実、機会の平等であった。予測不可能な社会では、平等にチャンスもあれば同時に危険もある。 俗に言われるパイプラインシステムが機能せず、尚且つ途中での脱落「漏れ」を含んでいる中、出発点のポテンシャル(=学歴の有無など)は実は意味をなさない。二極化されていく社会と言われるが、二極化される社会のどちらに属するかも事実、問題ではないと感じる。ただ、アウトソース化され、消費され、浪費されていく労働力が万人の希望を削いでいく状況には、寂しさを感じる。「人を育てる」と言う職人的な資質を含む、内省化社会、非消費社会、非浪費社会、が個人の資質では守れない部分であるとすると、社会なり国家が補償するものなのだろうと感じ、この部分には、二極化される社会に対する個人では解決できない部分だと感じる。 ・・「負け組」の絶望感が日本を引き裂く・・サブタイトルに書かれた言葉が左記であるが、絶望感は「負け組」にあるのではなくて絶望感を抱いたものが「負け組」なのだろう。本書で山田昌広さんは触れていないが、絶望感を抱かないで自己を駆動するトポスを内面に抱え、それを希望と読み替えていくには、人それぞれに知性が必要され、また、愛情も必要とされるのだろうと私は感じる。後者(=愛情)は生存を肯定された感情であり、何者にも変えがたいと考えられないだろうか。 1・個人化する社会では、利害が一致しないので寂しいかな団結は生まれない。「労働組合」と「経営者」といった相反する利害関係のうち「労働組合」がなくなる状況は事実だろう。何が「経営者」と戦うのか。非線形の社会では計画経済=社会主義の存在自体が成立たないから、「労働組合」的な概念自体がありえないのだろう。 2・非線形の社会であるが、人々が、線形を求める気持ちはよくわかる。始点があって終点がある状況は、携帯電話やTVゲームなどのポケット・ゲームに受け継がれているという指摘が本書にあった。まったくそのとおりで、成長していくキャラクターにプレーヤーは何かを望んでいるのだろうと、ケータイゲームなどで時間を浪費?することの虚しさを実感して欲しい。非線形の現実は現実として存在する。 3・人に厳しくドライな本であった。が、すべては、人を憂うための事実であり、内容として時代を捉えている。5年後に、この本に書かれた状況がどのように判断されるのだろうか。 4・「パラサイト・シングル」を生み出した著者は、時代の先を捉えているのだろう。先を見る目は人の資質によるのか。 5・「希望格差社会」という言葉に「ニート」ほどのキャッチーがないから、だれも話題にしないのだろうと感じた。 6・本書のキーワードに「リスク」という言葉が出てくるが、これこそが人間存在の現れ=挑戦の表れなのだろう。「AGAINST THE GODS」を「リスク」と訳した本が本書の中で取り上げられるが「自由」が獲得したものは、この意味なのだろう。 7・「自由」を望まない人(=前近代的な社会を望む人)は文字を捨てるべきだが、悩むこと自体が前近代を否定している。
by ssnostalgia
| 2005-03-13 23:52
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