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Howl's Moving Castle
ハウルの動く城」を観てきました。「現代をどうにかして捉えたい!」と願っている監督を感じましたが、捉えねじ伏せて作品のなかに時代を表現しきれていないと感じたのが率直な感想です。
超人(=宮崎駿)の能力の限界を垣間見た気がしてほんのちょっぴり寂しくもあり、また、己の殻を破っていこうとする(=時代を切り開こうとする)人間らしさに嬉しさも感じました。

東京オリンピック~万国博覧会をへて80年代に入り、表面上ますます豊かになっていくニッポンに警笛をならす「風の谷のナウシカ」で世に登場し、昭和の終わりには少女の自立を扱った『魔女の宅急便』、浮ついた平成時代の最初の作品で本当のカッコ良さを詠った「紅の豚」、20世紀を神殺しと共に看取った「もののけ姫」などなど時代を捉えた楽しめる作品を作ってきた監督だと心から思う。

「千と千尋の神隠し」と本作は同様の路線だと感じる。それは確固とした時代や世界観の中で主人公を語っていない。というか語れない。確固とした時代設定の消失は事実であり、監督は時代と共に生きてきたからそれを理解していると私は感じる。時代への理解が表現に現れ、これまでの作品にあった作り方とは異なった表現とならざるを得ないと感じているのだろう。

これは優れた監督の一面の表れなのだと感じ、素晴らしい感性と真摯な姿勢だとも感じる。が、作品の出来と優れた感性は別物。宮崎駿という個人の生き方と時代のあり方がずれて、時代に擦り寄った形になった今回の映画は、宮崎駿の世界観とは別次元で完成してしまった。結果、作品としての完成度を落としてしまっているのだろう。次作に期待したい。

感想として、、

・シナリオの根本を外部の人間の発想に頼ってしまった。「魔女の宅急便」では原作が他人であるが、円熟期を越えた監督作品「ハウル~」とは意味合いが違うだろう。(原作に忠実なのかどうかは原作を読んでいないので分かりませんが。今回の映画が原作に忠実であればもっと分かりやすかったのかも。)シナリオは本人が考えてほしかった。(できなかった?のかもね。)

・「動く城」が表すように、本来は動かないものが動くことが象徴するのは、不動のものが無いと感じているからだと。言い換えると、主人公をはじめ個人の内面的な話で世界を表現しようと試んでいる。前作同様、世界のあり様は個人的な問題なのだと。
(不動の外部世界があれば「巨神兵」とともに戦えるし、天空に城を作れるしね。)

・主体と客体が入れ替わる表現で埋められている。立場によって主人公の女性は、少女からお婆ちゃんに巾を持たせて位相をかえる。(母であったり、恋人であったり、家政婦であったり。)

・ハウルは4つの世界に生きていて、3つの名前を持ち、自分を隠しながら世界と付き合っている。名の無い4つめの顔が本来の自分だと言いたいようである。

・名前を持たない自分(黒い扉の世界の自分)は世界と戦っているが、戦っている理由が曖昧である。本当の自分が分からず闇雲に生きていることの表現なのだろう。誰でも持っている感情=反戦は映画を語る上でのアイデンティティにはならない。(反戦を主張するなら、戦争を反対する立場を明確にし、それに対する説明なり戦争を憎む気持ちのビジュアル化が映画としては必要だとおもう。)おそらく漠然とした敵を作ることで、ハウル自身が生きていることを実感させたいことの表れなのだろうと私は理解した。

・生みの親子の結びつきにそれほど大きな意味が無いことを、主人公と母親との生きる上での意味の無い関係をもって表現している。同時に、「ハウル」や「老魔女」や「火」や「子ども」や「カカシ」や「犬」が寄り集まった家族を血のつながった家族以上に大切にすることが「生活」であると述べていた。人間表現はやさしい。好感が持てました。

・全般的に登場人物の存在理由(=行動する理由)を述べないのは映画を分かりにくくしている。裏返して言うと、個人の内面が世界を作っているのだから、関係成立後の存在にはじめて意味が生まれる。存在理由を表明する説明は、個人の内面の説明となってしまう。が、事実そこには意味がない。だから省略したのでしょうが。

・「チカラのある男性」が「かわいそうな女性」を助ける構成は、宮崎駿の変わらない世界観なのだろうね。

普通にたのしい映画でした。

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by ssnostalgia | 2004-12-13 12:30 | movie
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