電話ボックスの電話が鳴った。誰がかけてきたかも解らない電話にそこに居合わせた主人公は反射的に受話器をとる。そこからこの物語はドラマとなって動き出す。「フォーンブース」観ました。 主人公(コリン・ファレル)は、自称売れているパブリシスト(=宣伝屋)。クライアントに有効な情報を提供することや、業界の大物や新人・若手の売り込みをすることで関係を取り持ちながら生きているギョウカイの人。事物に言葉巧みに付加価値を付けて商品価値を作り出す。そういうことがこの種の仕事が持つ本質だろう。 実際、事物に本当の価値が有るか価値が無いかはパブリストにとっては別問題だ。結果として付加価値がつけられて売れたものが正義で、「勝てば官軍」と言ってよい。そういった仕組みでのなかで主人公は、付加価値を生み出すことを最優先にして生きている。そのため虚偽に対しても悪びれる感覚はない。善と悪は立場によって変わることを理解している。主人公にとって虚偽を積み重ねた行動もその延長なのだろう。結果として評価を得る場合には否定されないのだ。 虚偽を生み出す仕組みへの怒りは、誰でもが心の中に持つ。少なくとも私はそうだ。主人公と電話で話を交わす「犯人」は、実は、私たちの代弁者である。その「犯人」が主人公に本心を語らせ懺悔をさせるのがこの映画のストーリーとなっている。 生産することではなく消費することが前提の社会は、生産に重きを置かないし、ましてや消費にも重きを置かない。消費したいという欲望を作り出すことに重きを置く。人間が持つ欲望を否定しようとは思わないが、「広告的」なものが持つ扇動する仕組みは、やはり間違っていると思う。生産者=消費者だけで成立つ社会が理想で、その間(ブローカーなどなど)は本来は必要ないのだろう。 映画の主題を要約すると「ウソをついてまで売りたい(売れたい)のか?」と聞かれた主人は本心を告げて「ウソはつきたくありません。本心で生きて生きたい。」と懺悔する。私にはそういった映画に感じられる。 「犯人」と主人公の始めて交わす会話がエンディング間際に再度流れる。 「面白いよな 電話が鳴る 相手は誰かわからない。なのに電話を取ってしまう。」 このセリフと、誰が作ったかもわからない広告の品物を買うという広告の仕組みは、同義と感じた。 一歩進んで、現実の世界とネットの世界の「乖離」があるとすると、ネットの世界での虚偽・虚飾が乖離を生み出しているのだろう。ネットの世界での匿名性は虚偽・虚飾の温床だから現実とつながれない部分に乖離が生まれるのだろうと。主人公の懺悔にそこまでの意味を感じた。 1・短くてシンプルな単純に楽しめる映画でした。 2・劇場でも十分再現出来るような。でも、うまく出来ないような、、
by ssnostalgia
| 2004-10-30 11:01
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