16歳の少年(=LELAND)が元彼女の知的障害者の弟を殺した話で、「世界は悲しみにあふれている」という触れ込みの映画をみてきました。「16歳の合衆国」と題された映画で、原題は「The United States of LELAND 」です。 人の行動を測るとき、その行動の理由を求め、それを理解したがるのが人間である。「誰が、なぜ、どんな目的で、それを行ったのか?」は誰にでも浮かぶ思考回路である。人が人を理解する。人間はそれを前提として生きてきた。相互の理解を元にこれまでの社会を築いてきた。 相互の理解を培った土壌は確かに存在し、絶対の価値観という観念を元に人は自分と社会の距離を測って自分の位置を確認し、自身の位置を修正してきた。絶対の価値観が存在したからこそ社会での自分の位置が測れた。 自分の位置が測れるから他人の社会的位置が理解でき、絶対の価値観を前提として自身と他者が共通の観念を獲得できる。共通の観念は相互の理解につながって、自身と他人を含む社会との関係を理解する。それによってそれぞれが連綿とリンクした世界像を獲得することができる。連続的な関係性という意味ではアナログ的である。 絶対的な価値観がなくなって久しい。絶対的な価値観を人が理解する尺度として捕らえ、その価値観がなくなったのが現代社会である。人が人を理解できなくなった世界像を描いた映画が、「16歳の合衆国」=「The United States of LELAND」という映画である。個人の価値観で作られる世界は個人の価値観が全てであり、他人の理解はその世界には及ばない。だから理解などありえない。 「個人の世界が存在する」という誤謬とも捉えられる表現のであるが、しかし、共通の価値観がなくなってしまったら、世界は個人の作る世界としてしか存在できない。恋人に愛を証明してほしいと迫られた主人公は、絶対的な価値観がなくなった世界を認識しているので、住む世界が違うのだから価値観は共有できるはずもなく、ましてや愛情なんて証明できないと知っている。愛情表現は共通の価値観がない前提では表現などできない。 また、主人公は知的障害者を殺してしまったが、それを悪いこととは認識できなかった。主人公の彼の価値観の中に住む「知的障害者の彼」は、生きることを苦しみ、辱めと恥をさらして生きるより「死にたいと願う存在」であって、それ以上でもなくそれ以下でもなかった。主人公は確かに殺人を犯したし、犯した事実を認め、事実を認めるが、自身の行動を悪いこととは感じえず、ただ社会の制度が悪とする自身の行為を素直に認めるだけである。 主人公の感性を絶対的な価値観に押し込んで理解することを大人が試みる描写などがあったが、それは映画表現の主題を際だたせるための事象で目的ではない。この映画が指し示す先は、全ての法(=人類の知恵)は意味をなくしたと私は感じ、甘いようだが映画終盤それを理解しポロポロと涙が止まらなかった。 やさしい主人公の存在は未来の多くの子供達の象徴と言え、涙なくして観れない映画であった。絶対的な価値観を否定した人間はどこいくのだろう。「ゴーストワールド」や「バージンスーサイズ」が語る子どもの世界を、大人の感覚で理解することの不可能性をまず理解しなくてはならない。最高の映画は哲学も法も政治も全てを凌駕して現実を捉える。
by ssnostalgia
| 2004-08-23 01:19
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