人気ブログランキング | 話題のタグを見る
Top
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ_a0016783_2336176.jpg

観念的な映画はいくつもあるけど遜色なくトップレベルだと思った。若い監督の映画で主演と脚本をかねているのにも驚いた。愛に関しての映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」

プラトンの「饗宴」で語られている思想を「愛の起源」をいう歌として映画の中で展開している。「饗宴」の内容は、本来は人間には3つの性があって、男と男で出来ている性(太陽)、女と女で出来ている性(地球)、男と女で出来ている性(月)としている。それぞれが2人で構成されて1つになって、だから寂しさを感じることはない。その理由がは愛に満たされているからと述べられている。神話の世界では人間は寂しさを覚えたりしない生き物だったのだ。

しかし、人間が力をつけてきたためそれに恐れた神話の神々が2人で1つの人間を引き裂き、寂しさを与える罰を与えた。太陽性からは男性と男性、地球性からは女性と女性、月性からは男と女がそれが生まれ、今の人間を形成しているという。

本来二人で1つであった人間は引き裂かれ一人で生きる寂しさに耐えられず、引き裂かれた片割れを探し求め生きている。愛は寂しさを癒してくれるから人間は愛を求める生き物になった。

人間は自分の"失われたカタワレ(missing half)"を求めてさまよい、そして出会ったときに芽生える感情=愛を懐かしむ。(複雑になるのでここでは恋愛の対象を異性に求めると仮定しよう。事実この映画の主人公は異性を求めている。)主人公の「性別は男性」だけど女性を自身の性として認識している女性である。

プラトンの「饗宴」のごとく雷の槍で引き裂かれたカタワレが存在するとして、彼が寂しさを忘れえる愛を得るための"失われたカタワレ(missing half)"はどのタイプになるのか?映画から投げかけられたこの問いに対して、画面を見ながらずっと考えていた。なぜなら答えはあるはずがないから。

が、映画はあっと驚く結末を準備していた。主人公のバンド仲間で「性別は女性」だけど男性を自身の性として認識している男性を、"失われたカタワレ(missing half)"として取り上げて映画は終わる。。。

・多様性を受け入れてくれるほど世界は豊かだ
・性にこだわって生きるべきでそこに愛がある
・性別は消せないが性は作ることが出来る

などなど、映画の結論から受ける監督の主題は保守的なのか先鋭なのか判断が付かないけど、映画で語られる部分には「その通りだ」と思う部分もいくつかあった。ただ性別に拘っているという部分で僕の考えとは全然違うのかな。。
プラトンの時代の愛と現代の愛は言葉は同じでも意味が違うし、「愛の起源」が述べる愛は本来1つであった人間が引き裂かれたために生まれた感覚でしかなく、結果(一人生きる寂しさの回避)で原因(求めるべき愛)を作り出している点で紛れもなく、不純だものね。。

映像表現やテンポ良い構成は抜群にかっこよく、特に「饗宴」のアニメーションは涙モノでした。
by ssnostalgia | 2004-07-25 00:06 | movie
<< 生命体 実験劇 >>



XML | ATOM

会社概要
プライバシーポリシー
利用規約
個人情報保護
情報取得について
免責事項
ヘルプ